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 小熊座・月刊


   2024 VOL.40  NO.464   俳句時評


    「純粋読者」について

                         
樫 本 由 貴


  私事だが、九月初めに国際研究集会に参加した。参加者が100名を超える集

 会でも俳句研究者が一人というのは珍しくないが、今回は筆者を含めて三名もの

 人間が俳句をテーマに発表したことには驚いた。筆者以外は韓国、台湾の研究

 者であった。台湾の研究者とは、台湾俳句会の成立や朝鮮俳句の先行論につい

 て話すことができた。

  外地における俳句について、現在ウェブマガジン「週刊俳句」で堀田季何主宰の

 「楽園」に所属する中矢温が「ブラジル俳句留学記」を連載している。興味深く読ん

 だのは第八回「語彙の抑制が詩性を帯びる可能性について」である。中矢はタイ

 トルの「「語彙の抑制」とは「ポルトガル語の語彙があまりに」ないため「度々言い

 換えを使ってその場をやり過ごしている」という意味で、「詩性を帯びる可能性」と

 は「一般的な表現でないので、一周回って哲学的で詩的かもしれない」ということ

 だと説明する。例えば「涙」というポルトガル語が分からない時「água nochorar =

 泣くときの水」と言い換えるのだそうだ。曰く「言い換えを使ったあと大切なのは、

 相手が理解して正しい語彙で返してくれたときに、〔中略〕感謝の顔で親指を立てた

 りウインクを飛ばしたりすること」。

  記事の主題は「言い換え」と詩的言語との接近にあるが、筆者は別のことを思っ

 た。伝えたいことと言葉が技術の問題によって不一致を起こすことは初学者にまま

 ある。しかし俳句の場合、創作に行き詰った状態が添削者によって改善されたと

 きの初学者の感謝のありようは「親指を立てたり、ウインクを飛ばしたり」という形

 にはとどまらず、両者の間にはひそやかに上下関係が織り込まれる。

  添削ではなく結社内での選についてだが、『俳句』九月号の「俳句観の共有」の

 中で、片山由美子は「結社に入るからには選者の選を無条件で受け入れる覚悟が

 必要」、「選句基準に従い、学ぶという気持ちがなければ結社には入らない方が良

 い」と言う。結社は俳句に対する思想や技術の伝達・継承の場であり、師弟関係

 が構築されもするのだから、こうした考えは道理だろう。結社が自浄作用を持ち、

 師弟関係が抑圧的な関係にスライドさえしなければ、そこに上下関係が存在する

 こと自体には問題がなかろう。

  同号には大石悦子の追悼記事も掲載されていた。井上弘美は大石の『有情』(20

 12)の掉尾の句〈綿虫と息合ひて世に後れけり〉に関するエピソードを明かす。彫琢

 された表現から受ける孤高の印象に反し、故人が誠意の人だったと伝える挿話で

 あった。同じく寄稿する高橋睦郎は、三月に没した黒田杏子の挿話によって大石

 の人柄を際立たせているが、三人の関係性を深く知らぬ読者としては、死者を語

 るための言葉に相応しいとは思えず困惑した。

  しかし高橋の評の黒田が「行動の人」だったという点には同意する。黒田の功

 績の一つには夏井いつきを見つけ、育てたことがあろう。九月に刊行委員会の手

 によって黒田の遺句集『八月』(角川書店)が出た。帯には「俳句は人生の杖」とあ

 り、この言葉は夏井もブログなどで「俳句は心の杖」という言い方で用いている。

 夏井は俳句甲子園やテレビを通して老若に広く俳句を広めた。まさに黒田の立ち

 居振る舞いを学び、継承していくのであろう。

  夏井の商業的成功や、俳句の裾野を広げる活動に触発されたか、現代俳句協

 会青年部が月に二回、青年部会員向けに企画している茶話会的企画「イマココ俳

 句」の九月の回は「純粋読者獲得に向けての提言」と題されていた。

  「純粋読者獲得」よりも、なぜ純粋読者が必要かを考えた方が良いと思いつつ

 参加したが、同時に「純粋読者」という言葉の射程も考えさせられた。

  実作者が欲しい「純粋読者」とはいったい誰なのであろうか。「まじりけのないこ

 と」を意味する「純粋」という言葉が上手く隠蔽しているのだろうが、筆者には実作

 者が欲しがる「純粋読者」が、俳句のリテラシーを持たない人々――自らの作品と

 出会うことが初めての「詩」や「俳句」との出会いであるような――を指すように思

 えてならない。であれば実作者の純粋読者への欲望は上下関係ありきの結社制

 度のアナロジーのもとに、自らの作品から詩や俳句を「学ばせたい」という欲望である。

  しかし、そもそも短歌の用語である「純粋読者」とは、実作者でない読者を意味す

 る。そのため、この言葉の射程には、たまたま書店で歌集や句集を手に取った、

 まだ十分には読みのリテラシーを持たない人々はもちろんのこと、すでに自在に

 短詩を読むことのできる市井の愛好者、さらには研究者や評論家も含まれる。こ

 れは俳句にも当てはまるだろう。筆者は立場上、自在に読める読者にたびたび出

 会うが、純粋読者を欲する実作者たちは、彼らも含めて「純粋読者」と言っている

 のだろうか。それとも、自らの欲望を満たし得ないばかりか、自分を凌駕する読み

 手という不都合な存在を、見ないふりをしているのだろうか。

  自らの欲望から目をそらし、視野を広げた先であれば、「欲しい」などと欲望せず

 とも、もう十分すぎるほどに「いる」であろう。日本語が第一言語であるかどうかな

 ど、まったく問題にならない地平に彼らはいて、我々を読んでいる。そうした読者

 は、するどく実作者の想像の射程そのものを批評し得るだろう。

  最後に、「読まないが、書きはする」という意味で純粋実作者なる言葉を造語しよ

 う。そんなことが可能なのかと思う向きもあろうが、型のある文芸の不思議で、夏

 井いつきの句会ライブが示すように、俳句は「読まなくても書ける」。しかしこれは書

 けるという成功体験をもたらすだけの「書ける」ということに過ぎない。実作者とし

 て、自らの表現を突き詰めることを続けるのであれば当然、学びも当然必要だろ

 う。学ぶためには、読まねばならない。そういうことを怠った先に立ち上がるのが、

 「純粋実作者」であろうか。




 
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