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 小熊座・月刊


   2023 VOL.39  NO.460   俳句時評


    二〇二三年の俳句甲子園に関わる大人へ

                         
樫 本 由 貴


  第26回全国高校生俳句選手権大会「俳句甲子園」の全国大会が、8月18日

 から20日に行われる。6月に行われた地方予選は、新型コロナウイルス感染症

 対策のため、一部会場では一般来場者の制限が行われたが、実行委員会によ

 れば、全国大会は通常開催を目指すようだ。おおむね第22回大会以前の開催

 形式を取り戻したといえよう。

  筆者はこの時期、必ず第17回俳句甲子園を思い出す。北海道で自生しない

 「柿」が兼題だったことに端を発し、俳句甲子園という組織の持つ想像力や、季

 語の中央集権的な枠組みに目が向けられたのだ。当時の堀下翔による時評「な

 やましい北国(あるいは俳句甲子園余談)」には、北海道の高校生が俳句甲子園

 で感じた困惑が拾われている。 (「―BLOG俳句新空間―」 

 https://sengohaiku.blogspot.com/2014/10/jihyo1.html)。この高校生が、本州

 へ旅行した際、そこが北海道にゆかりのない季語を自然に観察できる環境であるこ

 とに気付いて零した「どうしようかなぁって思った」という素朴な呟きは、今や大人

 である私には鋭く突き刺さる。北海道が本州と比べて特異な環境であることや、そ

 れによって内地の高校生とのディベートですれ違いが起きてしまったことは、この

 高校生が解決できるものではないからだ。俳句甲子園に関わる大人の想像力こ

 そが問われ、適切で視野の広い指導の必要性が提起されたのが、第一七回俳

 句甲子園だったと、筆者は考えている。

  俳句甲子園に関わる大人が高校生に対して想像力やケアの姿勢を持つべきな

 のは、このような季語の中央集権的な在りようや、高校生が否応なしに置かれて

 いる自然環境に対してだけではない。他に、高校生をどのように彼らが生まれ育

 った土地に固有の歴史や文化と出会わせるかが、まず挙げられよう。東日本大

 震災を始めとした自然災害、原爆、戦争、エトセトラ。これらは、俳句甲子園史上

 で最も有名な一句に第四回大会最優秀句《カンバスの余白八月十五日 神野紗

 希》があるように、大会発足当初からよく俳句の素材にされる。しかし、このような

 題材を俳句に使用するのは、創作者や鑑賞者への負担を伴いもする。なぜなら、

 これらの出来事には実際に被害に直面した当事者がおり、彼らを俳句の材料に

 する行為は、全ての創作に共通することだが、暴力性の伴う行為だからだ。こうし

 た行為を引き受けるために必要な知識や考え方は、恐らく一般的な高校生には

 習得されているものではない。ゆえに、俳句甲子園に関わって高校生の指導に

 当たる大人は、実際に被害を受けた人々のいる出来事を俳句の素材やモチーフ

 にすることについて、そしてそれを俳句甲子園に提出することについて、一時でも

 考えるべきだし、必要に応じて、適切な形で高校生に示唆するべきだろう。

  例えばこれは予想だが、今年の俳句甲子園にはウクライナ侵攻を想定した句が

 提出されている。侵攻はいまだ続いており、日々死者が出て、失われた〝その

 人〟は絶対に戻ってこない。遺族が残されるばかりだ。指導者は、こうした人々

 が俳句甲子園において〝消費される〟ことや、高校生が〝消費してしまう〟ことの

 ないように、注意を払う必要がある。もし指導している生徒がそういう句を書いてき

 たら、社会的な出来事を問題化しようとした態度を認め、一個人として尊重するこ

 とは前提として、大人として、こうした出来事により深く向き合うための手立てを示

 してほしいと思う。

  俳句の創作だけでなく、鑑賞も俳句甲子園の重要な要素だが、ここにも加害と

 被害の可能性が織り込まれている。俳句甲子園の試合は句合わせ形式であり、

 披露された相手チームの俳句は否応なしに鑑賞しなければならない。例えば、俳

 句甲子園の試合ではなく、学校の授業であれば、東日本大震災を経験した生徒

 が教室内にいた場合、不用意にトラウマを刺激されないよう、授業の進行におい

 て配慮するように教員同士で情報を共有する場合がある。だが、そうした配慮は

 俳句甲子園で実施されたことが今まであるだろうか。これは、「柿」など特定の地

 域に自生しないものを兼題と設定する場合があるように、大会の性質上対応が難

 しい部分もあることは十分に承知している。それに、トラウマを持つ高校生自身、

 俳句甲子園の歴史を踏まえ、そういう俳句に出会う可能性も加味し、準備して出場

 しているだろう。だが、これは指導者たる人々が、教え子たちの加害や被害の可

 能性を知らないでいいという免罪符にはならない。実際、そういうトラウマを持つ生

 徒がいることに思いをはせたことがある指導者はどれほどいるだろうか。

  もう一点、試合で披露された句は必ず鑑賞されなければならないということは、

 性的なモチーフを詠み込んだ俳句の鑑賞も行わねばならないということでもある。

 場合によっては会場全体がセクシャルハラスメントを引き起こす可能性もあり、見

 逃せない問題だ。これについては、岩田奎が自身のTwitterで(@ii_tawake)で第

 19回の俳句甲子園での試合に言及する形で、2019年8月に鑑賞の問題と絡

 めて既に指摘している。

  岩田は性をモチーフにした俳句の提出を制限すべきと言っているわけではない

 と強調している。筆者もまた、社会性の強い俳句や時事的な俳句を提出するべき

 ではないと言いたいわけではない。指導者と大会本部を始めとした、高校生に関

 わる大人は、俳句甲子園という大きな祭典に浮足立つことなく、高校生に対する

 十分な想像力を発揮し、必要に応じて対処してほしいと願っているのである。

  俳句甲子園で直面した困惑や悲しみを、先に挙げた堀下の時評のように「俳句

 甲子園なんて、さっさと通過すればよろしい」という、権威を無効化しようとする言

 葉でもってやり過ごすことも生きるための術の一つだろう。しかし、そのニヒリステ

 ィックな振る舞いは、その場限りの痛み止めに過ぎないと、筆者は考えている。

 「その地に生まれついたこと」を始めとした、その状況に置かれざるを得ないという

 事実が、自身にとって長引く痛みに変容したその時には、何かしらのケアが施され

 る必要がある。高校生に対しては、まずは大人が、その役割を担ってほしい。痛

 みを自らの手に摑みなおし、自分の中で昇華することはいくらでも可能だ。大人は

 そういう手立てを持っているから何とか生きていける。しかし、高校生に「諦めて自

 分で何とかしなさい」と言うのは、それは、大人の責務の放棄ではないか。




 
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