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  小熊座・月刊


   鬼房の秀作を読む (154)    2023.vol.39 no.458



         然るべき荒野はなきかわが端午

                              鬼房

                        『海 溝』(昭和三十九年刊)


  平成三年作。昭和末期のバブル経済が崩壊した直後の句で、景気後退の足音が

 忍びよる時期の作品である。同時に戦後日本の経済力は余力を保ち、人々は豊か

 さを享受し、俳壇では総合誌「俳句」がハウツー記事や「結社の時代」を掲げて愛好

 者の関心を煽っていた。句作はもはや人間存在の本質を穿ち、社会や有季定型へ

 の安易な妥協に抵抗する闘争の場ではなく、自身の個性を無条件に肯い、暮らしを

 慰撫する小さな教養の道具になりつつあった。かような時期に端午の節句を迎えた

 俳人鬼房は古稀を過ぎていたが、男児の誕生と成長を祝う端午の日を「わが端午」

 として新たに気概を抱くのである。俳句を正しい(、、、)場へと促す「然るべき荒野はなき

 か」と。

  昭和二十七年、鬼房は「俳句」で〈罌粟よりあらわ少年を死に強いた時期 兜太〉

 を取り上げ、現代の良識に生きる人士ならば兜太句に鋭い戦争批判を読み取り、

 感動するはずだが、この句を一顧だにしない俳人や俳壇への違和感を綴っている。

 「俳句の盾に隠れて社会の現況に目を覆う俳壇の実情を見てみれば、(略)芸術は

 主人持ちであつてはいけないという言葉は今日反動化された似非俳人の隠れ蓑に

 すぎないといえるであらう。俳人の決意は一にこの隠れ蓑の粉砕にある」(鬼房「罌

 粟よりあらわ」)。その鬼房が昭和も過ぎ去った平成初期になお「然るべき(、、、、)荒野」

 を求めたところに、戦後日本の残響と微かな諧謔が入り混じった俳句精神が感じら

 れる。              (青木 亮人「愛媛大学俳句研究者」)



  「端午」は五月五日の節句である。菖蒲や蓬を軒に挿し、ちまきや柏餅を食べて邪

 気を払う。江戸時代には男児の節句として盛んとなり、現代でも武者人形や鯉のぼ

 りを飾るが、それらは武勲や出世、健康を祈るものだ。暦の催しである端午に「わ

 が」という言葉がついている。世間一般の祝い方はある。しかし私の端午はいかなる

 ものかと考えているのだ。

  鬼房の答えは己の荒野を探すことであった。「然るべき」とはふさわしい、適切なと

 いう意味。荒野は比喩だろうが、実際望んでいたものは何なのだろう。緑がなく、資

 源に乏しい、潤いのない荒れた大地。土の乾いた誰もいない孤独な所。ここでは他

 人の助力は無く、運命を自らの手で切り開かねばならない。荒野を求める者は荒野

 ではないところにいる。豊かな実りがあり、生きるに苦労しない所。あるいは耕しが

 いはあるが自分の肌に合わない場所。土地はあれども他人の名義かもしれない。も

 しかして誰のものでもない土地を探そうとしているのか。

  端午の立身出世の願いを考えれば、荒野とは己の身を立てるための、開墾ある

 いは狩場となる所だろう。今いる所から離れ、連れ合いも仲間もなくゼロからのスタ

 ートを果たすために。あるいは新たな仲間と出会うために。この句はもう一度、己が

 一人きりだということを思い出すための鬼房なりの儀式なのではないだろうか。

                              (及川真梨子)