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 小熊座・月刊


   2023 VOL.39  NO.456   俳句時評


     主観客観私感(3)

                         
及 川 真梨子


  主体には、① 考えるその人と、② 動作をするその人(物)の二つがある。例えば

 次の句を考えてみよう。

   をりとりてはらりとおもきすすきかな  飯田蛇笏

  蛇笏の句には主体と言えそうな対象が実はいくつもある。作中に限定すれば、そ

 れは次のとおりだ。

   ・すすきを折り取った人

   ・はらりと重いすすき(物)

   ・すすきを「はらりと重い」と思った人

  おそらく「折り取った人」と「はらりと重いと思った人」は同一人物だろう。この

 句の中には「動作をし、思う人間」と「すすき」という二つの主体があるのだ。

  すすきが主体なのかという指摘が当然あると思うが、私はこの句が、すすきを主体

 だと誘導させることで名句として成り立っていると考えている。

  この句の最大の魅力は「はらり」を「重さ」と詠んだ事である。「はらり」とは通

 常、軽い物が散ったり、落ちたりする様子を表す擬態語だ。つまり「はらり」と書い

 た時点で、「はらりとすすきが動いた」ことは自明のものとして読者に受け取られ

 る。「はらりと重い」の中には「はらりと動いているすすき」が主体としてあり続け

 るのだ。

  実は〈はらりとおもきすすき〉だけでは、それほどの魅力は生じない。すすきの重

 さをはらりと読んだ、観察による描写の良さしか生まれないからだ。それはそれで優

 れた感性であるが、すすきの重さがはらりとしているという発想にそれほどの飛躍

 はない。

  しかし、「はらりと重い」の最終的な動作主は人だ。先に「折り取った人」が登場

 し、単純接続で繫がっているため、読者はなんなく「折り取った人」が「重いと思っ

 た人」と同一人物だと読むことが出来る。この仕組みによって、「はらりと重い」の

 部分で人を登場させずに人を示し、同時にすすきも主体と読める中七を成り立たせ

 ている。

  さらに言うなら、「~して」という単純接続は、俳句に微妙で絶妙な効果をもたら

 している。それは、①「~して~した」という時系列順の叙述の効果と、②「~した

 から○○」という因果関係を表す効果の二つを、③どちらか判別させずに記述する、

 という効果である。

  つまり、「折り取り、そしてはらりと重い」のか、「折り取り、だからはらりと重

 い」のか、その二つの可能性があり、どちらなのか私たちは判別がつかない。これに

 より、重さが、自然と重みを持つすすき自身の力によるものなのか、人が折り取った

 ことによるものなのかの受け取りが曖昧になっている。

  上五の仕込みにより、中七下五では、折り取られたすすきと折り取った人の感じ方

 が、相互に貫入するような作りになっているのだ。しかもそれを感じさせずに。さら

 りと「かな」で流している。

  単純接続の曖昧さもあって、すべてがすすきの穂の軽さのように世界を成り立た

 せている。それにひらがな表記がダメ押しをして、完璧なすすきのありようを十七音

 で読み取っているように思うのだ。

  このように個人的には構造のすごい句だと思っているのだが、それを支えている

 のは、人称の省略や省略に慣れた短詩の形式により、物すらも自らの意思を持っ

 て勝手に動くように感じる、そのように読むことが出来る俳句の力ではないだろう

 か。

  これはずいぶん前に書いた「俳句はアニミズムだ」という金子兜太の言葉にも通じ

 ると思う。俳句においては物が主体となること、言い方を変えれば、物が主人公にな

 ることにも全く抵抗がない詩形なのである。

  そこには擬人化による物の主人公化という方法も確かにあるが、この句のよう

 に、擬人化のない(あるいは擬人化と認識できない)自然な表現で、物が生き生きと

 描かれるものも多くある。

  俳句の主体にはいくつかあるという話だが、作中の動作主としての主体には、人と

 物をそれぞれ数えることができる、というのが自分の結論である。

  では、それ以外の主体、俳句の内外にどのような人物が存在するのか、というの

 にも触れたい。

  これについては、とてもわかりやすい定義が、堀田季何によって「作者の多層構

 造」として書かれている。

    俳句の内容を決め、言葉を選んで俳句をつくる作者とは、一体どのような存在

   なのでしょうか。(中略)

    俳句は、ある意味、認識の瞬間を詠む文学ですから、作者とは誰かの名前で誰

   かとして認識したことを誰かの視点で詠んでいる、と考えてみましょう。この作

   者は、「作者総体」として多層構造になっています。その構造の一番上にあるの

   は、生身の肉体をもって現実世界を生きている「作者実体」です。その下には、

   作者実体が決める「認識主体」が存在します。認識主体は現実にも作中にも存

   在しないのですが、世界を認識する立場にあります。一般に作者と呼ばれるの

   は、作者実体と認識主体の二層におよぶ部分です。

    俳句の内容は認識主体による認識に基づいて、作者実体が決定します。認識

   主体の下には、その内容に従って作者実体が決定する「視点主体」があります。

   視点主体は作中の存在で、視点主体が定まることで内容の表現が可能になり

   ます。内容を表現する過程には「作中行為者」が生まれます。私性や作家性の

   議論で「作中主体」と呼ばれるものは、視点主体と作中行為者の二層をひとまと

   めにしていることが多いようです。

    さらに、作者実体、認識主体、視点主体、作中行為者の四層を包み込むよう

   にして「作者名義」があります。作者実体、認識主体、作者名義は作品の外にい

   る、パラテキストの存在です。複数の作者実体が各自の句を一つの作者名義の

   もとで発表することもありえます。連作や句集において、作者実体以外は一句ご

   とに違う場合もあるでしょう。

  (「堀田季何呵呵俳話(三) 俳句の「私」誰かしら「楽園」vol.1)」より)


 と引用したところで、(4)に続きます。




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