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   特集「佐藤鬼房集成 第一巻 全句集」 ②



      ほとんど哲学者、俳人鬼房

                       杉 橋 陽 一 (俳句研究家)



 ほとんど哲学者、俳人鬼房


  鬼房の、昭和56年刊のエッセイ集『片葉の葦』の巻頭をかざる「消せぬ詩を」は、昭和

 41年に発表され、およびその巻末近くに収められた短文「野沢節子私観」は昭和51年

 発表された。執筆のあいだに十年を閲しているこの二つの文章のあいだで比較をしてみ

 て、鬼房俳句の大方のありようを展望したい。具体的には、令和2年春、全三巻のうちの

 第一巻『佐藤鬼房俳句集成』の全句集が対象になる。しかしこの第一巻は五千有余の俳

 句を収めていて、それらの正しい扱いには、つねに正確な目配りが必要となる。少なくと

 もスペース的に限定されるのは自明のことで、それは常に念頭になければならない。

  はじめの論攷は、フランスの詩人ルイ・アラゴンの詩をめぐる理想主義的なものである。

 或る種のパセティックな昂奮が感じ取れるので、このアラゴンにまつわる鬼房の文章をま

 ず引いて、その気息を感じとってみる。「アラゴンの詩は、ナチ占領下における、死をもっ

 て自由を守ろうとする不屈の精神、その特殊な状況を抜きにしては生まれなかったので

 あるし、今日の日本の現状では、アラゴンのような強く美しい詩は生まれようもないのかも

 しれないが、それでも、現実に当面する詩人の「自己革命」ということで、私も含めて、少

 なからず嬰退的なのではないかと反省される。エルザの歌は、アラゴンの個人的な愛に

 とどまるのではなく、「エルザ」を歌い、エルザを通して、フランスへの愛が歌われている。

 そのように、私もまた日常身辺の歌を通して、市民の、民衆の、社会の、この国土につな

 がる愛を歌いたいと思う」。アラゴンの態度を模範として、自分もアラゴン風に市民、社会

 国土につながる愛を歌いたい、と理想を語る。

  さて昭和50年刊の鬼房の句集『地楡』は、「霜割れ」のタイトルのもとにまず巻頭に、昭

 和40年に書かれた俳句を置いている。


    霜割れの風鳴(かざなり)妻子生きるべし


 がそれである。これを引用したあと、その後註で「ラブラドルのエスキモー族は、二月を

 「霜で地の割れる月」といふ」なる文言を付けくわえている。

  ここいらは、共通のネタに寄っていたようで、ほぼ同時期の昭和40年発表の「霜割れ」

 というエッセイの三段目の段落には、次のようにほぼ同じことを註している。

  「もう二月も終わりにちかい。エスキモー族の暦に順えば、二月が「霜で地の割れる月」

 そして三月は「若い斑入海豹の月」ということになる。エスキモーに限らず、原始的民族に

 社会生活に密着した言葉で暦日が示される」

  エルザを中心に据えた文章から十年後の昭和51年、鬼房は、「野沢節子私観」を発表

 している。ここで彼は、十年の経験をふまえて、あらたな自然観を展開している。全体を一

 言に約言すれば、自然と人間との相互媒介である。「自然と人間、自然と人間社会。ある

 いは自然―人間個―社会。たとえば人間個の特徴ある具体は、自然や社会の相関を踏

 まえて捉えなければ、絶対の個など成立しようのない抽象的なものであり、風土は、自然

 と人間及び人間社会の関わりにおいて風土なのであり、日本詩歌の骨幹に、勿論俳諧に

 も、古くから血肉となって生きてきた筈であった。言霊の拠りどころも物に寄せて思いをの

 べる手だても、「絶対」の中にあるのではなく「相対」の中に在って生きているということ。」

 これ以上先に行きようのない、いわば「絶対」としか呼びようのない孤立した地点に止まる

 ことはありえない。



 「草市の」


 鬼房全句集の巻頭の句は、


    草市のゆきずりの人みな白く


 である。しかし「白く」の意味は直ちには判明しない。それはただ自分が疎遠感を抱き、孤

 独をかこっているあいだは感じとれる。なぜなら「ゆきずりの人みな」が置かれたら、草市

 の人々のあいだに孤独に立っている作者は、他者たち一般をさしあたり「白」と規定する

 ほかないからである。したがってさらなる意味を見出すには、辺りを探るほかないようだ。

 この近所に置かれた作品群によって当たりをつけると、ここから八句あとに、


    白き詩人の口絵を見たり解雇の日


 なる句がある。まさにこちらが、つまり作者が職を解雇された日、「白き詩人の口絵」を見

 た、という件の日になる。口絵の詩人は作者に違和感を与えた。「白き詩人」は立派な、

 すでに名声を獲得していた人のようだ。有名な詩人の肖像画を見たら、その日に、こっち

 は解雇されたという。したがって「白き詩人」は、アイロニカルなニュアンスは排除しないも

 のの、一応、括弧付きで立派な詩人ということのようだ。しかし、若き鬼房は「白き詩人」

 の「白」さを何とか片付け、認識行為を磨きながら俳句に精出して進んだのである。たとえ

 この日一日は「白き詩人」の白さを呪詛したにしても。



 ヒメムカシヨモギ――龍太と鬼房


  昭和16年12月、いわゆる太平洋戦争が始まったとき、飯田蛇笏の四男、飯田龍太は

 國學院大學二年生、肺浸潤を病んで学校を休んでいた。その間6月には次兄が病没、二

 年後の18年に龍太は右肋骨カリエスのため2月再び帰郷して手術。これは手術がうまく

 いって快復。

  しかし戦後二年目の夏、長兄がレイテ島で戦死した。その公報が飯田家に届いた。さら

 に翌年の1月には、ふたたび公報によって三兄が、外蒙古抑留中、戦病死をとげたと、伝

 えられた。昭和31年36歳のときから龍太は、父飯田蛇笏がはじめた俳誌「雲母」の編集

 を継ぐことになった。

  そして次に引く俳句には、「――9月10日急性小児麻痺のため病臥一夜にして六歳に

 なる次女純子を失う」と前書きに書いている。


    露の土踏んで脚透くおもひあり


  純子が埋葬された「露の土」を踏んだら、脚が透明になるんじゃないか。いや、「露の土」

 には、類句から解釈した方が賢明かも知れない。角川書店の創立者、角川源義は、昭和

 45年5月、十八歳の次女真理を失っている。自殺であった。飯田龍太は「自裁の理由を

 あれこれと詮索してみても、よしなきことであろう」と批判的であるが、角川は以後四年に

 わたって俳句で悔悟を表明している。龍太によって列挙された十二句のうち一句だけ以

 下に写すと、


    親なしの天国(はらいそ)いかに露の夜      角川 源義


  「露の夜」における「露の」、と同じ機能を果たしている。いかに天国に行こうとも、本来

 先に行っているはずの親がそこで待っていなかったら、つらい夜をどうやって凌いだらい

 いのか。親もいない、十八歳のみそらで、いくら天国とはいえ、とてもひとりではやっては

 ゆくまい。別な作では、「まづ父の雪の足型につきて来よ」とあるが、十八歳にもなる娘へ

 の溺愛が、返って自裁の遠因ではないか、とすら推測されるくらいの父性愛である。

  さて龍太は、先に挙げたように、次女純子を失うという悲痛な経験をしたわけで、その前

 口上は引いた通りである。龍太は娘の墓参のさい次の作品をつくっている。


    ヒメムカシヨモギの影が子の墓に      龍太


  ヒメムカシヨモギ(姫昔蓬)は、ただ影を墓に差しかけているだけの任意のヨモギではなく

 幼い女の子の過去を含意している。急死した我が子の墓に影を投げかけるヨモギは、ヒメ

 ムカシというさらに詳しい規定を見出され、本質的・意味的な土台を堅固なものとするの

 である。ヒメムカシヨモギの名前によってこのヨモギはさらに具体的に父も亡き()に近付

 けるのである。かつてはヒメであったヨモギは彼女の墓に意味的にも物理的にも絆を結

 ぶのである。この句は昭和52年から56年のあいだに製作された作品をふくむ句集『今

 昔』に収められている。

  ところで、あろうことか、のち鬼房はここに介入してくるのである。


    ひめむかしよもぎや稚児の金産毛      


  このヨモギの表記が片仮名から平仮名に変わると同時に、植物名につづく一字に「の」

 から「や」にも変化している。かくて鬼房はこうした「かつて在りし娘」の存在を、ヨモギの名

 前を通じておのが世界に組み入れる。すなわち自然が、物理的な「影」のみならず、その

 意味によってもおのがなかに組み入れられるのを確認する。

  さらにそれだけではなく、このヨモギに「稚児」の「 産毛(うぶげ)」、しかも、金の(黄金色の )、

 という詳細な情報も加えられ、これははじめての客観的な、つまり、客体に関する情報と

 なる。

  さらにもう一句、鬼房は龍太の旧作、


    貝こきと嚙めば朧の安房の国



 を平成4年、本歌取り的にふるまって改作し、以下のように別な可能性を開くのである。


    首こきと鳴る骨董の扇風機


  鬼房のマニアックな拘りが読者の微笑を誘う。貝と首の漢字は見た目も相当似ているし

 「こき」という擬音の共同使用は、「嚙む」、「鳴らす」という機能の相違にも関わらず、ほか

 が変わった割には何の相違も招来しなかったようだ。「貝をこきと嚙む」が「首こきと鳴る」

 に転換するとき、人間のあいだの事柄から、「骨董の扇風機」の問題に移っている。骨董

 品クラスのくたびれている扇風機が首を廻すと「こき」と鳴ったのだから、ここでは確かに

 必ずしも人間界のことが問題ではないのかもしれない。鬼房の古い電気製品は、その古

 さによって奇妙な、活動音とともに働くのである。当時はこうした根底から調子を変える方

 法を異化作用と呼んでいたが、鬼房はとぼけた顔でそれを使ってみたようだ。



    餓 鬼


  もう晩年と思われる七十四歳(平成5年)の鬼房はまず、年頭に当たっての句として、

  読初は山家鳥蟲歌巻之上(四七五頁)を掲げている。そして年初の読書は何にすべき

 か、というテーマが追求される。『山家鳥蟲歌』なる書物はメジャーな歌集ではないよう

 だ。ということは、ここで鬼房は、素人をウナラせる、もっともらしい書物を選んでいたよう

 だ。第一、この書物はどこにいったら見つけられるのか。国会図書館あたりまで行かない

 とダメみたいだ。それくらいハイブラウでなけりゃ!

  これにつづく二句は餓鬼の語を含んでいる。


    餓鬼を飼ふ寒夜のCogito , ergo , sum

    大寒の餓鬼のやうなる細喉(ほそのみど)


  この年の劈頭は「寒夜」、「大寒」が示すように、ことさら寒さが強かったようだ。その寒さ

 は鬼房を自宅に留まるよう促したか。筆頭、読初の材料として、横文字、それも何たる博

 識! デカルトの人間存在を根拠づける有名な「我思う、故に我在り」が引用されている。

 しかもCogito , ergo , sumというラテン語の原語版である。ペダンティックな表記をものとも

 しない読者を自明の前提としているのだろうか。「私」の代わりの「餓鬼」がまたこころにく

 い卑下の仕掛けである。

  このラテン語はデカルトの『方法序説』に由来するだろうが、残念ながら私は、はるか昔

 若い頃に目を通したかすかな記憶はあるものの邦訳の雰囲気はおぼろげになっている。

 いずれにせよ、この「餓鬼」は、鬼房のもうほとんど習いになっている一種の自己侮蔑的

 一人称代名詞である。



 鬼房の「幼年期 五句」


  鬼房は平成12年執筆の「幼年期 五句」で以下の五句を記している。平成12年に筆者

 は八十一歳であり、死の前年に執筆されたことになる、つまり年譜を見ると死が翌年に迫

 りつつある――近頃流行のタームによれば――後期高齢者の著述になるものである。


    幼年期 五句

    捨ててある軍鶏(しゃも)(けづめ)とビー玉と

    おらあちんこだ岩走る春の水

    おてんばのくのいちごつこうめの花

    遊女屋の子と仲たがい春休み

    雨ばかり降る活弁の糸柳


  したがってこれら作品群は、ごりごり攪拌やら暖めたり冷やしたり、(こな)れた記憶のなか

 でいろいろ手を入れられたことだろう。

  シャモの(けづめ)とビー玉とは、子どもの想像力でたちどころに実に有用な遊びの必需品に

 なる。子どもの遊びの常として、おもちゃはまたも、そこいらに投げっぱなしになっている。

  「おらあちんこだ」の次の行にポイントを落として、「ちんこは幼児語で陰茎のこと」と註が

 ほどこされている。関東で「ちんこ」はふつうの幼児語だが、鬼房の東北地方ではさほど

 広範には使われていないのだろうか。幼児のちんこは「岩走る春の水」に比定される。う

 まいものだ。

  気っぷのいい小説家山田風太郎が一群の小説のなかで、女性たちを自由奔放に活躍

 させ、小股の切れ上がった女性とはかくあらん(?)と読者を感じ入らせたものだ。読め

 ばとても愉しい「おてんばのくのいち」ではおもわず笑ってしまった。山田から新輸入のゲ

 ームである。前句の「ちんこ」のノリで「くのいち」に移ったのだろう。

  したがってこれらの作品群は、記憶のなかでこりごり攪拌やら暖めたり冷やしたり、いろ

 いろ手を入れられたことだろう。軍鶏の距とビー玉とは、セットになって遊具になっていた

 か。あるいはゲームに参加した者だけが摩訶不思議なルールを思い出すのだろうか。

    附記

  脱稿後、編集サイドから以下の御教示を受けたので、拙文に追加をしておきたい。

  つまり『山家鳥蟲歌』は岩波文庫にも収められるポピュラーな書物であった。私はネット

 でこの本の検索も怠り、そもそも足廻りも悪くなっていた。





      佐藤鬼房または原初のエネルギー

                          奥 坂 ま や  (「鷹」)


  佐藤鬼房の作品と出会ったのは、俳句を始めて間もない頃。歳時記の「麦」の項に次の

 句が載っていた。


    陰に生る麦尊けれ青山河


  衝撃だった。句を目にするやいなや、脳裡に太古の神々の世界が絢爛と繰り広げられ

 た。

  『古事記』のなかでも、私の大好きなオオゲツヒメの話――たくさんの美味しい食べ物を

 鼻口尻から出して、腹をすかせたスサノヲの尊に奉った姫は、穢らわしいとして尊に殺さ

 れる。しかし姫の亡骸からは、頭からは蚕、目からは稲、耳からは粟、鼻からは小豆、陰

 からは麦、尻からは大豆が生った。

  これはインドネシアの女神の名前から命名された「ハイヌウェレ型神話」に属する食物

 起源神話の一種で、アフリカ・中南米・オセアニア・東南アジアまで、世界的な拡がりを持

 つ。女神を滅ぼし、その死と引き換えによってのみ、豊かな作物を手に入れることが出来

 るという、人類の根源的な神話のひとつだ。

  たった十七音しかない俳句で、これだけ宏大な時空間の宇宙が詠めるということに、息

 が詰まるほど感動した。しかも、赤子出産の場所である「陰」に焦点を絞り、下五に「青山

 河」を置いたことで、作物に限らず世界そのものまでも産み出す大地母神としての存在が

 読み手に強烈に印象づけられる。『古事記』の神話が生々しくも活きいきと脈打ち出す。

  「佐藤鬼房」の名前は、この句によって心の深いところに刻み込まれた。その作品には

 私たちの心の奥底に流れる、原初のエネルギーが息づいている。このエネルギーの視点

 から、佐藤鬼房の世界を覗いてみたい。


    毛皮はぐ日中桜満開に


  日の光に輝く満開の桜の下で、生き物の皮を剝ぐという、この作品も、荒々しいエネル

 ギーの魅力を存分に発揮している。そして掲句もまた、高天原でのスサノヲの所業を思

 わせる。

  亡き母の居る根の国に赴くスサノヲは、姉のアマテラスにいとまごいの挨拶をしようと高

 天原に上った。しかし天の国を奪おうとしているのではないかと疑われ、身の証しを立て

 るためにアマテラスと「うけい」を行い、それに勝つ。さらに勝ちの勢いにまかせて、様々

 な暴挙を繰り返し、最後にアマテラスが機を織っている棟に「天の斑馬を逆剥ぎに剝ぎ

 て」投げ込む。

  『古事記』の魅力のひとつは、高天原やアマテラスに象徴される「秩序」に対して、スサノ

 ヲの荒ぶる力を対比させ、その力を決して悪とはみなさずに、混沌のエネルギーとして感

 じさせる記述のしかたにある。この破天荒のエネルギーによってスサノヲは、人間世界を

 襲い、侵食するものとしての八岐大蛇を退治し、新たな世界を築くことができたのだった。

  また毛皮は、人類にとってとても大事な衣服だった。暑いアフリカで誕生した私たちの祖

 先が、母郷を離れて北方に進出した時、毛皮なしでは冬を越せなかったに違いない。さら

 に氷河期を生き延びることが出来たのも毛皮のおかげだったのだ。それなのに日本では

 中世以来、皮はぎの仕事は差別の対象になってきた。掲句は、毛皮の持つ太古からの精

 気の復活も果たしている。


    夏草に糞まるここに家たてんか


  この句でも鬼房は、生きることのむき出しのエネルギーを突きつける。ものを食べ、消

 化し、排泄することは、生きていくための根本条件だ。夏草の生い茂る大地に直接、排泄

 すれば、死んで人間の身体を通過した植物や動物が、再び、母なる自然の大いなる循環

 に戻ることが出来る。

  いまや私たちは、文明のもとに衛生を重視し、下水道の普及によって、排泄と自然を切

 り離してしまった。しかし狩猟採集生活を送っていた何十万年もの間、人類は獣や鳥と同

 じく、大地に「糞まる」ことを続けてきた。そしてある時、そこに「すみか」としての家をたて、

 大地に根付いた定住生活を始めてもなお、自然との一体の関係を続けてきたのだ。


    切株があり愚直の斧があり


  農耕や牧畜や土器作り以前の文明段階は、世界的に「旧石器時代」という名称で呼ば

 れる。石から作った様々な道具を使っているわけだが、日本列島でのみ発掘される独特

 の石器として「石斧」の存在がある。この斧型の石器を木の柄に取り付け、樹木を伐るの

 に使っていた。

  そしてさらに、中国や中近東、エジプトなどの地域が農耕・牧畜を始め、金属器を作るよ

 うになっても、日本列島では高度な狩猟採集生活を続けたまま定住生活に入り、弥生時

 代になるまで石斧を使い続け、三内丸山遺跡に見られるような多くの大型建物も作り上

 げてしまう。

  やはり古の精神世界に敏感であった三橋敏雄も「みづから遺る石斧石鏃しだらでん」と

 詠んでいるが、私たちは「石斧」に対して、特別な思いを抱いている。掲句の斧も「愚直の

 斧」とあるからにはやはり「石斧」に想像が及ぶ。大樹を石の愚直のちからで、長い時間

 をかけて切り倒してきた太古のエネルギー!


    ひばり野に父なる額うちわられ

  雲雀は春、天空の高みまで昇り、縄張りを主張して根限り囀る。鳴いているのはすべて

 雄だ。妻と子を守るための縄張りなのだ。しかし鳥たちは、懸命の子育ての後、雛が巣立

 てば、お互いに個別に生きてゆく。人間はそうはいかない。親子の関係は一生続き、エデ

 ィプスコンプレックスと名付けられているように、特に父と息子の間には、時には死に至る

 こともある精神的な葛藤が多くみられる。

  スサノヲもまた、八岐大蛇から救ったクシナダヒメとの間の娘・スセリビメと結ばれて義

 理の息子となった大国主に様々な試練を与え、殺そうともするが、最後は敗れて、祝福の

 言葉を与えざるをえない。心理学者ユングの唱えた古来からの「集合的無意識」は、神話

 にも如実に現れるが、鬼房の作品にも生々しく登場する。


    蝦蟇よわれ混沌として存へん


  『荘子』に描かれている「混沌」は元々、目も鼻も口もなかった。混沌に歓待された二人

 の帝王が、お礼に五感に必要な穴を作ることを思いつく。目の穴二つ、鼻の穴二つ、耳の

 穴二つ、口の穴一つ、一日に一つずつ穴を穿っていって、七日目に完成した時、混沌は

 死んでしまった。

  無秩序な自然にむりやり秩序をもたらすと、本来の自然のちからも喪われてしまうこと

 の寓意だと言われる。あらゆる矛盾を抱え込んだ、大いなる無秩序としての世界こそが、

 荘周の理想の世界だったのだ。

  鬼房の句の世界もまた、徹頭徹尾、原型としてのエネルギーの側に立つ。生きもののな

 かで最も混沌性を蔵している存在に「蝦蟇よ」と親しく呼びかけて同志として心を通わす。

  秩序で固めてしまえば、一見、平和な穏やかな世界になるかもしれないが、創造のエネ

 ルギーは喪われてしまう。世界にはアマテラスの秩序だけではなく、スサノヲの混沌とした

 エネルギーも必要なのだ。


    残る虫暗闇を食ひちぎりゐる


  コオロギなどの秋に鳴く虫たちは、雌を呼ぶために、あるいは縄張りを守るために、身

 をふるわせて鳴き続け、冬になる前にほとんどは死んでゆく。「残る虫」は、冬が近くなっ

 て周囲の草原もすがれ始める頃になっても、未だ雌をみつけられず、子孫を残すという思

 いを遂げていない雄たちだ。

  暗闇を食い千切るほどの焦燥感で、必死に鳴いている虫の声には鬼気迫るものを感じ

 る。しかし、この時期になれば、雌の方も、雄と番って卵を産んだものも、すでに死んでし

 まったものもあって、雌を獲得するのは困難のきわみとなっている。この決してあきらめず

 破れかぶれになって突き進む生き物の姿も、混沌とした命のエネルギーの一典型なのだ

 ろう。


    馬の目に雪ふり湾をひたぬらす


  一見、静かな景に見えるが、この句にも過剰が充満している。海水で充ちている湾も、し

 っとりと潤っている馬の目も、もともと濡れている存在なのだが、降り込む雪によって、もっ

 と濡れてくる。雪はどんどん降り続ける。馬の目が雪を受け入れることによって、だんだん

 巨きくなり、一湾と同じ拡がりを持つ。

  さらに、この句を見詰めている読み手の目のなかまで、雪が降り込んでくる。読み手の

 目にも雪が充たされ、馬の目と一体となり、さらに濡れ続けて、一湾と同じ大きさにまでな

 る。読み手も馬も海原も、降りしきる雪の裡に同化して、雪はいつまでもいつまでも降り続

 ける。すべてを取り込んでしまう雪という存在の無限のエネルギーが、一句のなかに抉り

 出される。


    やませ来るいたちのやうにしなやかに


  梅雨明けの後にみちのくを「やませ」が襲う年は、その冷たさによって作物に致命的な

 被害がもたらされる。宮沢賢治が「サムサノナツハオロオロアルキ」と詠ったのは、明治3

 8年の大凶作の時だった。

  海の沖からやって来る濃霧の分厚い帯は、変幻自在に姿を変え、津々浦々に上陸し、

 田畑を襲う。「やませ」という不定形なものを、「いたち」と言葉に置いたことで、言霊が働

 き、不定形の存在が、目に見え手で摑めるものとなった。霧と化して人間の目をくらまして

 いた悪神が、呪文にかかって本性を現したかのようだ。しなやかな巨躯を波打たせて田

 畑を襲う「やませ」は、八岐大蛇の同類とも思える神話的な存在となって、句の裡に躍動

 する。


    鳥帰る無辺の光追ひながら


  秋の季節に何処ともしれぬところからやって来て、春になるとまた、天空の彼方へ去っ

 てゆく鳥たちを、私たちは太古から神聖な存在として仰ぎ見てきた。

  弥生時代に祭器として用いられた銅鐸や土器には鳥の絵が登場するものがあり、神の

 使いとして刻まれたのではないかと言われている。弥生時代の遺跡から、門の上に鳥の

 形をしたものが置かれているのも見付かっており、神社の鳥居の原型と考えられる。『古

 事記』には、高天原から出雲へ国譲りのために遣わされた、天がけるアメノトリフネノカミ

 が登場する。

  限りなく広がる光明は無限のエネルギーを髣髴とさせ、それを追って彼方へ帰っていく

 渡り鳥の姿は、太古から崇められてきた、此の世ならぬ存在そのものだ。


    羽化のわれならずや虹を消しゐるは


  蛹から全く違う姿となって再誕してくる蝶もまた、昔から、彼の世に通じる不可思議な存

 在として感じられ、死者の魂の姿とも思われてきた。「羽化」の語は、人が神通力を得て羽

 を持ち、仙人になることも意味した。

  羽化して、虹を消し去るまでに偉大な姿となった「われ」が登場するこの句にも、太古か

 らの精気あふれるエネルギーが充満している。希望の象徴としての虹を消し去る、暗黒

 のエネルギー。


    北溟ニ魚アリ盲ヒ死齢越ユ


  北溟に棲む何千里もの大きさの鯤という魚は、これまた何千里の大きさの鵬という鳥と

 なり、はるか南の天地をめざして飛んでいくはずであった。だが、この句の巨大な魚は、

 盲目で飛び立つこともならず、死すべき齢を超えていたずらに生き永らえている。

  無限の空間と永遠の時間に横たわる、この大いなる魚こそ、荘周が夢見た、すべての

 矛盾を抱く混沌のエネルギーそのものではないだろうか。佐藤鬼房の作品に渦巻く原初

 のエネルギーは、最後にこの魚の姿となって、時を超えて作品世界に君臨し続けている

 のだ。





      コンプレックスと自負 佐藤鬼房俳句の魅力

                     中 岡 毅 雄 (「いぶき」「藍生」)


  佐藤鬼房の俳句を読んでいくと、強烈なまでに、負の体験や意識が詠み込まれている

 ことに驚く。「貧」「病」「戦争」。読者は、作者の感じ取った痛みを共有することを強いられ

 る。しかしながら、その痛みを怺えながら読み続けることこそが、鬼房の俳句を体験する

 ということなのではあるまいか。

  ただ、注意しなければならないのは、鬼房はマイナスの体験や認識を、単なる自己卑下

 としてのみ表現しているのではないということだ。その背後には強靱な矜恃が感じられ

 る。負の体験と正の自負。佐藤鬼房の俳句を読んでいると、この相反する二つの要素が

 絶えず、一句の中で蠢いている。わずか十七音の中で、相反する要素がぶつかり合い昇

 華される。鬼房俳句を読むとは、屈折した二律背反の要素に直に向き合うことに他ならな

 いのではないか。

  鬼房は、第五句集『鳥食』のあとがきに、次のように書いている。

   齢五十の半ばを越え、所詮とりばみの愚痴に等しかった来し方を愧じるばかりだが、

   訴え叫ぶことから、言葉を絶って地に沈む静謐の霊歌をねがういま、私にとってこの

   句集は何らかの区切りになるのかも知れぬ。収斂の時期、身軽にやさしくなりたい。し

   かしながら私の中の血を見つめずには何事も詠み得なかったように、おそらくこれか

   らも鳥食の賤しい流民の思いは消えず、迷い多き詠い手として試行錯誤を繰り返して

   ゆくばかりなのだろう。


  「とりばみ」の句集名は、次の一句に基づく。


    鳥食(とりばみ)のわが呼吸音油照り


  「鳥食」とは「大饗の時の料理の残りものを、庭に投げて下衆などに拾い取らせたもの。

 また、その下衆」(『広辞苑』)。鬼房の家系について、このあとがきから判断する限りでは

 恵まれない境遇にあったのだろう。一句の中に詠み込まれた「鳥食」という貧しい境遇。そ

 の劣等感が、自分の呼吸する音に通うように強く感じられる。じりじりと過酷に照りつける

 日の光は、その思いを増幅させる。

  注意したいのは、その意識が一句の中で堅牢な自負を形成しているところである。特に

 「わが」の一語がもたらす読後感は鮮烈である。もしこれが、「鳥食の呼吸音なり油照」な

 らば、一句はたちどころによそよそしくなり、原句の持つ、肌に照りつける灼熱の感触を失

 ってしまう。読者は作者が自己の置かれている環境に真っ正面から向き合うことにより、

 一句から、強い生きる意思を感じ取れるのである。


     2

  『佐藤鬼房俳句集成 第一巻』には、高野ムツオ編の年譜がまとめられている。それに

 よると、鬼房は、昭和15年1月、現役編入、朝鮮咸鏡北道鏡城の輜重兵第十九聯隊自

 動車中隊に入営。以降、中国南京、漢口、荊門、宣昌など、転々とする。

  第一句『名もなき日々』では、まず、鬼房の従軍体験を詠んだ作品が心に残る。


    嘔吐する兵なりハンカチを洋に落す

    夕焼に遺書のつたなく死ににけり

    濛々と数万の蝶見つつ斃る



  船酔いした兵が、ハンカチを海へ落とした。吐瀉物とともに、ハンカチは波に揉まれ沈ん

 でいった。ハンカチは模様の入っていない白いものだろう。それゆえに、残像は明瞭に目

 に焼きつけられる。

  二句目は、戦友のことを詠んだものであろう。言葉たどたどしく綴られた遺書を残して死

 んでいった。もしかしたら、もう、まともに書き綴ることができない体調のもと、記された遺

 書だったのかもしれない。夕焼は、遠い祖国への望郷の念をかき立てる。

  「濛々と」の句は、凄絶な光景。空が薄暗くなるほどの蝶の群舞のもと、戦場に死んでい

 った兵がいたのである。


      濠北スンバワ島に於て敗戦

    吾のみの弔旗を胸に畑を打つ

    捕虜吾に牛の交るは暑苦し

    生きて食ふ一粒の飯美しき


  昭和20年、鬼房はオーストラリア北方、スンバワ島で敗戦を迎え、捕虜生活に入る。肺

 浸潤を病んでいた。前掲の年譜によれば、「微熱つづき労役免除」とあるので、一句目は

 想像の産物か。それとも、静養の身となる前の自分を詠んだものか。いずれにせよ、心

 の中で、自分の死を意識しながら、農耕作業に従事しているさまを詠った。

  三句目は、命のかけがえのなさを伝えてくる。一粒の飯に宿っている命のみなもと。食

 べるという営みから、生きていることのありがたさを感じさせる作品である。


     3

  鬼房は、昭和21年5月、病院船で名古屋上陸。名古屋・静岡・仙台の病院をリレーされ

 帰郷。7月、仙台大林組車輌部へ就職する。


    かまきりの貧しき天衣ひろげたり


  「天衣」 とは、「天人・天女の着る衣服」のこと。蟷螂の翅はみすぼらしいものだが、「天

 衣」と喩えられることによって、神々しい美しさへと昇華される。貧なるものから聖なる世界

 への転換。鬼房の希求が、蟷螂に託されている。


    切株があり愚直の斧があり


  鬼房の代表作の一つである。この句、調べが定型から逸脱していて、十六音になってい

 る。「キリカブガ/アリ グチョクノ/オノガアリ」。この一音の欠落の意味は大きい。凡庸

 な詠み手ならば、「切株がありて愚直の斧があり」としてしまうところだろう。それをあえて

 字足らずにすることによって、一句の緊張度を増加させる。「愚直の」という無骨な内容も

 調べによって、より強調される。「愚直な斧」と作者は一体化している。


    馘首まぬかれず造花を道に踏み


  昭和24年作。年譜によれば、鬼房は、前年、4月、大林組を退社、大洋製氷に就職。こ

 の退社は、不本意なものであったのだろうか。造花は、真っ赤なものを想像させる。退社

 を余儀なくされ、追い詰められた心理が、造花を踏むという行為に、よく表されている。


    毛皮はぐ日中桜満開に


  嗜虐趣味の句。この句を読む限りではそのように感じられる。ただ、作者が東北という

 地に根ざしている事実を考慮すれば、自然の恵みに満ちた作品と解釈する方が妥当な

 のかも知れない。猟師たちが、獲物の皮を剝いでいる真昼間、満目の桜は輝くような光を

 放っている。


     4

  第二句集『夜の崖』は、昭和26年から、29年までの四年間の作品をまとめたもの。


    縄とびの寒暮いたみし馬車通る


  冬の日暮れ。縄跳をしている子供の傍らを、馬車が通り過ぎていった景自体は、別に負

 の詩性を持っているわけではない。一句のポエジーは、一重に「いたみし」の部分に託さ

 れている。また、「カンボ」という硬質な響きが、「いたみし」との意味の亀裂の間に、ガタガ

 タという馬車の進んでくる音と相まって、軋むような緊張をもたらす。「傷みし」は「痛みし」

 とも通い合う。


    孤児たちに清潔な夜の鰯雲


  鬼房の弱者へ向ける眼差しは優しい。孤児院の光景だろうか。もちろん、「清潔な」は

 「夜の鰯雲」にかかっているのだが、「孤児たち」にも清浄なイメージを与える。静かな夜、

 安息な時の流れを感じさせる一句である。


    鶺鴒の一瞬われに岩のこる


  「宮城県鳴子にて」の前書きがあるが、この場合、あっても、なくても良かろう。石叩が岩

 に止まっているのが見えた。飛び去っていった瞬間、残像が目に残っている。しかし、実

 際には、目に岩が残っているばかりである。鬼房としては珍しい自然詠だが、主体と客体

 を結びつける語として、一句の中ほどに、「われ」の一語が入っている。「岩の残りけり」で

 はないのである。「われ」の存在により、作品は単なる花鳥諷詠句ではなく、ありありと生

 身の作者の存在を感じさせるようになっている。


    戦あるかと幼な言葉の息白し


  昭和29年作。世界情勢はまだまだ不安定だった。日本の遠洋マグロ漁船第五福竜丸

 が米国の水爆実験によって発生した多量の死の灰を浴びたのも、その年の出来事であ

 る。「戦争があるの?」と訊ねた子供の言葉に作者はハッとした。いとけない問いかけを耳

 にし、愚行を繰り返している人類に対する批判の思いを抱かずにはいられなかった。


    齢来て娶るや寒き夜の崖


  鬼房が結婚したのは、昭和21年のこと。この句は、昭和29年の作だから、タイムラグ

 がある。自分のことを回想しながら詠んだのか、あるいは、知人のことを詠んだのか。そ

 のあたりの事情は分からない。しかしながら、いずれにせよ、「結婚」= 「めでたい」という

 世間一般の常識では割り切れない屈折した思いが、そこにある。結婚適齢期が来て結婚

 したもののという逆接の思いが強く前面に押し出されているのだ。「寒き夜の崖」という殺

 伐とした景は、家庭を持つことの責任感と不安感がない交ぜになった複雑な思いを象徴

 している。


     5

  最後に、第四句集の『地楡』の句に触れておきたい。鬼房の代表作である。


    陰に生る麦尊けれ青山河


  この句が、『古事記』の中の一節を踏まえていることは、従来、指摘されていた通りであ

 る。

    食物(をしもの)大気都比売神(おおげつひめのかみ)に乞ひたまひき。(ここ)に大気都比売神、鼻・口(また)尻より種々(くさぐさ)

    味物(ためつもの)を取り出して、種々作り(そな)へて(たてまつ)る時、速須佐之男命(はやすさのをのみこと)()(わざ)を立ち伺ひ

    て、穢汚為(けがし)奉進(たてまつ)ると、(すなは)ち是の大宜都比売神を殺したまひき。(ゆえ)、殺されし神の

    身に生()れる物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種(いなだね)生り、二つの耳に(あは)生り、鼻に小豆

    生り、陰(ほと)に麦生り、尻に大豆(まめ)生りき。


  速須佐之男命に殺された大気都比売神の陰部に、麦が生えていた。その神話をもとに

 鬼房は一句をなした。わずか十七音の中に描かれている時空は広大悠久である。「陰」

 は、生命の誕生のシンボルであると同時に、ここでは、五穀豊穣の喩えとなっている。金

 色に実った麦と、青々とした山河との色彩の対比。ダイナミックな空間が生き生きと描か

 れている。


  佐藤鬼房のほんの一部の秀句にしか触れ得ないまま、紙幅が尽きてしまった。これ以

 降の作品に関して述べることは、また、別の機会に譲りたい。





      一大詩劇を観るように

                          谷 口 智 行 (「運河」)


  青春時代に戦地に赴き、復員、そして戦後の俳句界を牽引した俳人がいる。金子兜太

 鈴木六林男、沢田欣一、森澄雄、古舘曹人、そして佐藤鬼房たちである。

  大正8年前後に生まれ、戦前・戦中・戦後という時代を通じて自己形成を遂げた彼らは

 それ以前の俳人やそれ以後の俳人とは本質的に異なる俳句との出会いを経験した。

  以下、鬼房句を年代順に抽出し浅慮を巡らせる。


  第一句集『名もなき日夜』より。

    紫蘇の香はほのぐらく祖母病みほそり

    大旱の葉裏葉裏が鬱と炎ゆ


  昭和16年開戦。二十歳の鬼房は徴兵検査にて第一乙種合格。この年、祖母小幡つめ

 が逝去した時の句である。

  前年の昭和15年には京大俳句事件が起こり、すでに俳句という表現形式を選択してい

 た鬼房もまた、反時代の加担者という自縛を意識したに違いない。あるいは殉教者のごと

 き崇高な意識もあったか。


    切株があり愚直の斧があり


  昭和23年(二十九歳)の作。代表作のひとつであるこの句も第一句集に収められてい

 る。戦時の呪縛から解かれた日本とは言え敗戦という社会状況と相俟って、鬼房に人

 間や物の存在に対する認識の変容が芽生えた時期である。「愚直の斧」とはまさに、縛ら

 れていながら縛れていないという不条理の中、とりとめもない時代気分で俳句と関わる己

 の姿であった。


  昭和30年(三十六歳)。第三句集『海溝』より。

    誕生日鹹き漬菜を呑みくだす

    徒労のみ黒き茂りの雨音よ

    逝く年の炭ついでぼろ辞書とあり


  時代の変わり目特有の混乱の過程、鬼房自身、俳句を自身の精神風土、時代的特殊

 性、文学上の戦後的屈折性として自作を特徴づけた。戦後俳壇におけるこうした屈折性

 は凡そどこかヒステリックで不毛な様相を呈するものだが、鬼房が俳句と出会った背景を

 思えば、これらの鬱屈した心情を作品に宿して然りと言うべきだろう。

  鬱屈の主要因は、徹底して個的なものを基因とする自己(=金子兜太の記す「錆色の

 抒情」)と、それに正対する社会化・合理化してゆく己、不条理な現実を抱え込まざるを得

 ない己との鬩ぎ合いである。自己分裂的な乖離感覚を深める現象と言ってもよい。


  昭和43年(五十歳)。第四句集『地楡』。

    陰に生る麦尊けれ青山河

  昭和46年(五十二歳)。同『地楡』より。

    仮の世のわが黒砦雪しまく

    遺書要らぬ日の砂丘行蹠冷ゆ

    倉庫番除夜飄々と眠りたし

    天邪鬼一匹のわれ年を越す


  鬼房は、敗戦による価値の逆転によって湧き起こる心情を内向的に詠むことを忌避し

 た。詮なき呟きやぼやきに堕することを理解していたからだ。

  当時鬼房の中にあった幻想を筆者はこう思う。その幻想とは、まず根底に明瞭な現実

 の世界が存在し、現実の立脚点から非現実の世界を覗き込み、時にそこに楔を入れると

 いうもの。あたかも個的心情を詠むといった狭隘な殻を打ち砕くかのように。


  昭和48年(五十四歳)。第五句集『鳥食』より

    手がのびて搔くどんと火に陰あれば

    父死後の胎内に枯れ月桂樹

    尿るため夜番の鈴を殺しけり


  不条理な現実によって追い詰められた自我は心の悲鳴と化し、反骨と頑迷の中に屈折

 が加えられている。鬼房は不条理な現実(=時代)の中で魔性(=沈黙の俳句)にとり憑

 かれ、自己表現の方法を確かめるのであった。


  昭和62年(六十八歳)。第九句集『半跏坐』。

    鶏が血を見てをり雪の隙間にて

    壮麗の残党であれ遠山火

    半跏坐の内なる吾や五月闇

    秋草やこころの景色ゆれやまぬ


  余談だが、集成中に次の二句と出会い驚いた。前詞に「新宮の田中旬子より手作りの

 秋刀魚の鮨をもらふ 二句」とある。


  平成5年(七十四歳)。第十一句集『霜の聲』より。

    熊野なる鮨食へば春急ぎ足

    春夫健次が好みし鮨や夕朧


  新宮市で中上健次が設立した熊野大学俳句部に筆者が入会したのは平成5年のこと。

 ここに同郷の田中旬子がいた。何かにつけ「鬼房先生は、鬼房先生は」と目を輝かせ、嬉

 しそうに語っていた姿を記憶している。


  平成13年(八十二歳)。第十四句集『幻夢』より。

    混沌と生き痩畑を耕せり

    楽譜降る沼にはまりて死ぬもよし

    血を吐かぬほととぎすなど用はなし

    戦あるのと問ひし児と居り麦熟らし

    をしくも死取り逃したる去年今年


  今回本稿の依頼を受け、改めて鬼房という人間の就職、応召、復員、結婚、闘病などの

 現実的・社会的体験から編まれたそれぞれの句集を読み込んだ。

  研ぎ澄まされた感覚を秘めたみちのくの一青年が時代の波に押し流され、抗い、近代

 的自我意識を確立してゆく様が見て取れた。その過程は差し詰め「一大詩劇」を観てい

 るようだった。深刻な状況の中で出会った俳句というものを原罪のように背負い、重厚な

 情念を以て詠い続けた比類なき俳人、それが佐藤鬼房その人である。




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