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 小熊座・月刊  


   2019 VOL.35  NO.411   俳句時評



      八年目の「震災詠」考 ⑸
            ―『釜石の風』照井翠の思索から②


                              武 良 竜 彦



   蜩や海ひと粒の涙なる              

  この句が認められた色紙が私の部屋の壁に飾られている。 第九回小熊座賞の照井翠

 特選賞として、直筆の色紙をいただいたときのものだ。以来、私にとってこの句は句集『龍

 宮』を象徴する句として胸に刻まれている。

   海嘯の合間あひまの茂りかな      『釜石の風』所収

   流灯を促す竿の撓ひをり                

   三月の君は何処にもゐないがゐる         

   また雪の舐めてくれたる涙かな            

  照井翠エッセイ集『釜石の風』には、『龍宮』以後のこのような句が収録されている。

  「海嘯」の句のエッセイでは、この後に「人間とは、津波と津波の間に僅かに茂らせて

 貰っている存在なのか
」という言葉が添えられている。別の句ではかつて「私達は三月

 を愛さないし、三月もまた私達を愛さないと。悲しみは薄まらないし、心の傷も癒えな

 いと
」と述べたと回想した後、「三年目にして深まる喪失感と絶望感に打ちのめされる

 と書かれている。

  言葉を失うような凄惨な被災体験という言葉の真空状態に遭遇し、それでも 〈俳句の虚

 実〉 という自己表出に向かう内なる意志を奮い立たせて、「震災後」の歩みを続ける作者

 の魂は、震災の記憶を希薄化するに任せている大多数の日本人と、次元を異にして生き

 ている。

  この魂の位置と真逆の位置にあるのが「復興=善」という通俗的常識である。そんな俗

 識が支える経済発展優先で突き進んだ「戦後」の昭和、その結果のバブル崩壊と停滞の

 平成、「オウム事件」、「阪神淡路大震災」、「東日本大震災」、「原発事故」と多数の自然災

 害などが成長神話に留めを刺した。「復興=善」という俗識はすでに賞味期限切れの「成

 長神話」の残滓に他ならない。被災者に「励ましの一句」を贈ろうと思いつく考えも、この賞

 味期限切れの「成長神話」の残滓を引き摺る精神が言わせる言葉だ。被災者を励ますと

 いう行為は、「回復」を無条件に「善」と見做す単純思考の為せるわざだ。

  そのような精神の者は、この照井翠の「私達は三月を愛さないし、三月もまた私達を

 愛さない
」「悲しみは薄まらないし、心の傷も癒えない」という言葉の前で途方に暮れる

 だろう。「なぜ、いつまでもそんなところに留まっているのか」と、訝しがるに違いない。「励

 ましの言葉」は被災者たちを「はやく立ち直れよ」と追い立てる行為に等しく無神経な言葉

 なのだ。

  心の傷は癒すことが善なのか。大切な人を喪った人はその悲しみからいち早く立ち直る

 ことが善なのか。

  「三月」の句には次の言葉が添えられている。

     ※

  大切な人を喪った者は、この世の枠組みなどとうに超え、やがて魂と触れ合い始め

 る。肉体など、何ほどの価値があるだろう。魂と対話できるようになれば、永遠はす

 ぐそこだ。


     ※

  俗識に塗れた大多数の日本人は震災の記憶など風化するに任せ、目先だけの「今」に

 縛られて右往左往し、いまや東京五輪話に浮足立ち、改元騒ぎに酔いしれている。

  癒されることを拒み、自己の内部深く、死者と、喪失の悲しみを抱きしめて「震災後」を歩

 んできた被災者の魂は、「世の枠組みなどとうに超え、やがて魂と触れ合い始め」、

 「永遠はすぐそこ」という未踏の地平に足を踏み入れているのだ。大多数の日本人にはそ

 の後ろ姿は見えていない。

  どうやって照井翠はその地平に辿り着いたのか。

  それは、震災が起こったその日、その瞬間から私たちの「日常」と照井翠たちの〈日常〉

 が、まったく違ったものになったことに始まる。照井翠たちは非日常が日常化する日々を、

 長時間にわたって体験することになる。一方、非被災地域に住む私たちは、日常のちょっ

 とした異状を体験して、元の「日常」にさっさと帰還してしまったのだ。

  照井翠とその生徒たちはそこで何を体験したのか。

  高校教師の照井と、その生徒たちは破壊尽くされた町の瓦礫と遺体の見分けも付きがた

 い非日常の中で、避難所生活を送っている。時間は超低速度となって遺体の回収と瓦礫

 の撤去が進行する永い非日常を生きた。照井たち教師は高校という学びの場を整え自分

 たちの力で学校に〈日常〉を作り出した。生徒たちは先生たちが悪戦苦闘して作り出した学

 校という〈日常〉に、遠くばらばらになった避難所から、非日常の風景の中を通って登校し、

 その〈日常〉を健気に「運営する」役目を果たした。生きようとする意志が作り出した〈非日

 常的日常〉が、先生と生徒たち共通の心の支えだったのだ。『釜石の風』で照井はこう述べ

 ている。

     ※

  大震災の時も、避難所となった体育館には、教職員も全員いて、同じ所に眠り同じ

 ものを食べ、生徒にそっと寄り添った。私たち教師には、生徒達の〈日常〉が学校な

 ら、その学校生活をより良いものにしていこう、この学び舎を彼らの幸せな場所にし

 ていこうじゃないかとの思いがあった。そしてまた、私たち教師にとっても、普段通り

 に授業ができる学校こそが、貴重な〈日常〉だった。


     ※

  〈日常〉とは力を合わせて作り出す「心の場」なのだ。それは照井翠の『龍宮』の深い精神

 性と通底する。そんな奇跡のような「場」が、あの荒涼とした被災地の中に生まれていたこ

 とを、非被災者のだれが想像できただろうか。それは「復興」によって土建工事で町を更地

 にして、「喪失」を上積みして「取り戻す日常」とは全く別のものだ。

  震災直後、臨時避難所となっていた体育館に、十日前に卒業した女生徒が在校生の安

 否を確認するために訪ねてきた。誰かに貰ったタオルで身体を拭いていたが、津波泥まみ

 れのひどい姿だった。ここに来る途中、津波に呑まれて死にかけた体験をしたばかりの姿

 だったのである。「先生、私、津波に負けなかったよ」と「目を異様にぎらぎらさせて」告

 げたという。犠牲者の一人になっていたかも知れない彼女の瞳の力を、照井翠は胸に刻

 みつけている。




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