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 小熊座・月刊 
  


   2018 VOL.34  NO.398   俳句時評



      沖縄を語り詠む困難さについて

                              武 良 竜 彦



  五月十五日は「沖縄返還」の日である。本稿の掲載は七月になるが、書いているのはま

 さにその日だ。私はこの返還復帰という語に違和感がある。その理由をかつて本誌に書か

 せていただいた。次がその抜粋要約文の一部である。

   ※   ※

  五月十五日、沖縄出身の女性のことを思い出す。学生時代にアルバイト先で知り合った

 人だ。次はその人の言葉だ。

  「琉球という独立国家だったのに薩摩の侵略に遭い、明治維新後も明治政府に支配され

 た。日本人は博覧会で琉球人を野蛮人種として展示した。戦時中、琉球語を話しただけで

 スパイ扱いされて虐殺された。日本の敗戦色が濃くなると、日本の詩人は日本のために琉

 球を最後の砦として死守せよと詠った。琉球人のためではなく日本のために捨石になれと

 言った。敗戦後、米軍の基地の島にされ続けている琉球に対して、日本は責任があるの」

  1972年沖縄が「返還」された年、沖縄に帰るという彼女に再会し、アメリカにも日本にも

 深く失望したという彼女のそんな思いを、別れの言葉と共に聞いた。

  「日本『復帰』を望んだのは、そうすれば基地がなくなるという希望を持ったからよ。基地

 を琉球に残すのなら、日本『復帰』に何の意味があるって言うの。そもそも『復帰』って何。

 琉球は琉球に返してもらう」


  「沖縄返還の日」になるとその言葉が今も胸を抉る。

  今、琉球の独立を20.6%の人が支持しているという。彼女はその20.6%の中の一人

 に違いない。

   ※   ※

  そして次のような沖縄を題材とした俳句も投句してきた。


   武器厭ふ民あり琉球浜防風 / てだのふあが土握りしめ沖縄忌 / 

   沖縄の地にこそ建てり九条の碑 / 照準器背中を捉へ島ンチュウが春 /

   遥かなる卯波金網肝苦りさー


  このような、沖縄と言えば沖縄戦の悲劇、沖縄といえば基地問題と思い込む「本土人」の

 代表みたいな自分の俳句に、詠みながら違和感を禁じ得ないのも事実である。沖縄の人

 自身のリアルな実感と、それはかけ離れているに違いない。沖縄戦や基地のことを批判的

 に語り詠めば済むような、単純な受け止め方はされていないのではないか。そんな私のよ

 うな固定観念的視座が、沖縄の人たちの自立した俳句表現の進展を疎外することになっ

 ているのではないか。

  そんな私の自問と疑問に見事に応えてくれる刮目すべき論考に最近出会った。「沖」同人

 で俳句評論賞の受賞歴もある、新進の俳句評論家でもある鈴木光影氏の〈「民衆文学」と

 しての沖縄俳句〉という論考である。(「コールサック」誌93号「俳句時評」2018年3月刊)

  その一部を次に抜粋紹介する。鈴木氏は沖縄出身の安里琉太氏がウェブ上(「スピカ」)

 に連載している「擬態する天庭」の一節を抜粋紹介して、次のように述べている。

   ※   ※

  「沖縄」を詠むということが、私自身を詠むこと、或いは「アイデンティティー」らしきものと

 イコールではないことに気付く。如何に私の経験に基づいて詠もうが、読みの段階で、私自

 身が経験したことのない、「戦争」をはじめとした「沖縄」のトピックとイデオロギーに回収さ

 れ、均一に消費されてしまうのだ。(10月9日)

  「沖縄」の俳人を読んでおかねばならないと思い至った。あらゆる側面をもって、いずれも

 私が体験しえなかった「沖縄」を「他者」として読み直そうと思いついたのである。表象不可

 能な位置から書くために。(10月13日)

  以上には、安里氏個人が「日常」や「私の経験」を基に如何なる種類の句を作っても、結

 局は、歴史的政治的に類型化された「沖縄俳句」として「消費」されてしまうという空虚感が

 ある。「アイデンティティ」の危機がある。また、それは「沖縄俳句」の読者(「本土」)への不

 信でもある。(略)「表象不可能」とは、「均一に消費されない」ということだろう。(略)沖縄出

 身俳人による〈「沖縄」を「他者」として読〉む作業はこれからも続いていく(略)

   ※   ※

  沖縄の「当事者」である俳人が直面している葛藤が、このように描きだされていて瞠目さ

 せられた。俳句表現にとっての沖縄の俳人たちの困難はここにあることに気付かされる論

 考である。例えば、あなたが住む県が「特別扱い」をされて、「〇〇県俳句」とか「〇〇県俳

 人」と一括りにして評される違和感を想像すれば解ることだ。作品が持つ独自の主題と作

 者の表現意図が歪められるのだ。そこでは副作用として、自分で自分にレッテルを貼る倒

 錯の悲劇も生じる。沖縄出身の安里氏が沖縄を他者として読む作業は、類型化することな

 く、その一人ひとりの一つひとつの俳句作品を、純粋に俳句作品として読むことに他ならな

 い。それは「本土人」の思い込みによる「消費」を拒絶し、自立した俳句文学を確立すること

 に繋がる道だろう。

  鈴木氏の論考はこの後、俳誌「天荒」と、その前身「無冠」に結集した若い俳人たちが、

 俳句改革を展開した歴史について触れている。彼等の活動に先行または平行して、沖縄

 にもホトトギス系の伝統俳句派の俳人たちがいる。今や「本土」では、伝統俳句派と改革派

 の間の軋轢や葛藤は昔ほどではなく論争としては形骸化しているが、沖縄の俳人たちの

 間では、どう受け止められているのだろうか。

  論考の結びに鈴木氏は、沖縄戦や基地のことばかりではない、多様性に満ちた沖縄の

 俳人たちの作品を紹介している。鈴木氏は自分たちの暮らしと精神性に立脚した、自立

 した表現を目指すその姿勢に、「本土俳人」もそうであるべき「民衆文学」の可能性を見出

 している。

  最後にその一部を転載させていだく。

   吐き出した闇が輝うさがり花           玉城 秀子

   これが屍地球展だ 核のアメなめよ       野ざらし延男

   宮古訛利き足のバネで踏み込む         本成美和子

   アガパンサス青い心臓が手招きす        山城 発子

   母の日や悔いの林立火炎木            川満 孝子

   海遠し洗濯機が泳いでいる            金城 けい

   ケラマブルーの痛み忘れず熱帯魚        柴田 康子






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