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 小熊座・月刊 
 


   鬼房の秀作を読む (89)      2018.vol.34 no.393



         嘔吐する兵なりハンカチを洋に落す          鬼房

                               名もなき日夜』(昭和二十六年刊)


  この句を読んだとき、真っ先に感じるのは、その韻律の特異さである。

  オウトスル/ヘイナリハンカチヲ/ウミニオトス

  意味を把握するためには、5音+9音+6音以外に切りようがない。字余りを通り越して、

 自由律とも読まれかねない音数である。

  この句を定型の枠の中で読もうとすると、一句から拡散しようとするコトバのエネルギー

 を十七音に収斂させなければならない。その結果、一句の中には、すさまじい緊張感が

 生まれる。

  もし、これが 、「嘔吐する人なり」 であれば、日常の光景の描写となるだろう。しかしなが

 ら、一句の内容は、もっとシリアスな場面を訴えかけてくる。それは、 「兵なり」 の 「兵」 に

 よる。嘔吐は、単なる体の異常 ではない。精神の痛苦を訴えかけてくる。

  もともと、この句は、「虜愁記」連作の中の一句。「兵となりあはれ寒月の洋をゆく」が冒頭

 の作品である。

  それに囚われず、一句を鑑賞することは可能だろう。単なるメタファーだと考えてしまえば

 説明に落ちてしまう。一句のうめき軋めくような調べは、自己のアイデンティティが剥奪され

 ていくような激烈な違和感を、ダイレクトに切実に表現している。

                                     (中岡 毅雄 「藍生」 )



  川崎展宏に 「定期財布ハンカチ小銭入れ立夏」 の句がある。この句には平和的な日常

 が明日も明後日も続いていくという戦後の経済大国日本の安心感と倦怠感がある。このハ

 ンカチで拭くのはせいぜい汗ぐらいだろう。フランスで一枚のハンカチで何度も洟をかむ光

 景を目にしたが、今の日本ではあり得ない。歳時記にハンカチは「服装に合わせ色や柄や

 材質を選び楽しむ……」とあり、どちらかと言えば装飾的な持ち物という印象がある。

  さて、掲句であるが、 「兵隊っていうのは誰だって好きなやつはいないんだけれど」 と言

 って戦争に否定的だった鬼房ではあるが、昭和15年、21歳で陸軍輜重(しちょう)兵として入隊し、

 前線と後方との輸送の仕事をした。句は「漢口」と前書きがある一句の前に置かれている

 ので、揚子江の支流辺りでの句であろう。戦の後方のある日の一場面を気負いなく冷静に

 切り取っている。そのハンカチの色は白だ。否応なく兵隊に駆り出された一人の人間が体

 を曲げて苦しんでいる黒い姿とハンカチの白がありありと見えてくる。

  この句には後年の句集 『鳥食』 にある 「吐瀉のたび身内をミカドアゲハ過ぐ」 の 「吐瀉」

 ということさら生々しい言葉で生理現象を詠み、負の要因を華麗な蝶に転化させていく凄

 味は見られないが、静かに静かにそして深く迫ってくるものがある。

                                              (中村  春)





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