小 熊 座 2017/11   №390 小熊座の好句
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     2017/11   №390 小熊座の好句  高野ムツオ



    南国に燕の溜る秋彼岸        増田 陽一

  「歳時記は日本人の感覚のインデックス(索引)である」という寺田寅彦の言葉を知

 ったのは、角川書店の『図説大歳時記』の角川源義の「刊行の辞」による。それから

 半世紀過ぎたが、その時感じた共感と違和感は今も続いている。共感は季語と認識

 されることによって感覚世界はもちろん、その感覚を培った民俗、文化、歴史、そし

 て、生き継いできた人間の息づかいまでが、一つの言葉の背後にさまざまに展開さ

 れる、まさにそこにある。季節が限定されることによって、言葉が実に無尽蔵にさまざ

 まな世界を紡ぎ出すのだ。「虫」は秋に鳴く虫と定められることで、その声が聞こえ、

 周辺に広がる闇が見え出す。虫そのものまでが映像化する。しかし、同時に、それ以

 外の虫が虫という言葉から除外されてしまう違和感も伴うのだ。少年の単純な疑問に

 過ぎないが、蝗や螇蚸は、その時点で虫ではなくなってしまう。甲虫や天牛も虫のは

 ずだが、虫であることはもとより、季語の「夏の虫」の範疇からすら除外されてしまう。

 「夏の虫」は灯盗虫以外は意味しないのだ。その言葉の世界の矛盾は実は今もずっ

 と続いている。

  掲句に出会って、その忘れていた記憶がよみがえった。季語の世界では燕は春に

 来るもので、その姿にもっとも親しめる夏の燕は「燕」ではなく「夏燕」となる。秋の燕

 は帰る燕、つまり「帰燕」として認識される。「越冬燕」という言葉も近年は見かけるが

 この言葉も燕は基本的に「帰る」ことが前提として生まれたものだ。帰ったあとの燕は

 俳句の世界では存在しないのが無言の共通認識なのである。

  しかし、掲句は、その季語には存在しない燕を詠っている。南国に戻ったあとの燕

 である。南国の燕を現実に見たことはないが、「溜る」という表現が想像力を刺激す

 る。燕にとっては南国は越冬地。体力をゆっくりと身につける場所なのだ。白鳥や雁

 にとっての日本と同様ということになる。しかし、その安息地にたどり着くまでは過酷

 な行程がある。台風や外敵など幾多の厄難を越えて、やっとたどり着いた安堵感が

 「溜る」にまず込められているのだ。

  その南国の燕が季語「秋彼岸」と対峙する。唐突とも感じられる取り合わせだが、こ

 こに、もう一つ別の世界が立ち上がる。人間が墓参すると同様、燕もまた、渡りの途

 中や日本で亡くなった燕たちの供養をするために一カ所に集っているさまを想像させ

 るのだ。燕の弔いである。すると、季語の世界には存在しなかったはずの南国の燕

 が、季語の世界の存在として新たな姿を表し出す。独断かもしれない。この句の初見

 は土の会だが、参会者の一人が、「それなら金子みすゞの世界ですね」と応えてくれ

 た。「大漁」の詩である。人間が浜で大漁と喜んでいる時、海の中では鰮〈いわし〉が

 何万の鰮の弔いをしているだろうと鰮を思いやっている詩だ。テーマに通底するもの

 がある。

    胡瓜反り蕃茄は歪むみちのくは        丸山みづほ

  「胡瓜」の「胡」は中国の北方異民族を指す。「胡」には獣の顎の垂れ下がった肉と

 いう意味もあるようで、まさに胡瓜の姿形そのものが想起できる。異人の頭部のよう

 な実が胡瓜なのである。「蕃茄」は原句ではカタカナ表記だったが「蕃茄」と漢字に変

 えさせてもらった。「トマト」の音の元はメキシコ先住民の言葉で「黄金の林檎」のこと

 らしい。漢字表記の「蕃」は未開の異民族を指す。つまり「蕃茄」とは野蛮な外国から

 伝わった茄子ということになる。この差別的な漢語が二つ並び、それが「みちのく」と

 いう辺境と結び着くことによって、みちのくという土地の有り様が実にリアルに浮かび

 出てくる。一夜にしてたくさんの実を付ける「胡瓜」が虐げられた民衆の怒りの姿を彷

 彿させ、葉陰にまだ青く固い「蕃茄」が、蔑まされ悲しみに表情を強ばらせた人々を

 連想させる。熟れた蕃茄は、憤りで顔を充血させ、さらには赤く割れ始めてさえいる。

 この句に蝦夷と呼ばれた頃の東北や、三陸、福島の今を生きる人々の姿を想起する

 のは私だけではないだろう。

    ちちははがありて蓑虫ぶらさがる        上野まさい

  蓑虫が「ちちよ、ちちよ」とはかなげに鳴くのは枕草子の逸話に由来する。蓑虫は

 蓑蛾の幼虫で実際にはむろん鳴かない。蓑を着たものは異界からの使者との伝承

 がある。スサノオが天界から追放された時、蓑を着て神々を訪ねたとのくだりが日本

 書紀にあるので、それが源であろう。秋田のなまはげも蓑を纏っている。蓑虫を鬼の

 子と呼ぶ由来もこのへんにある。その鬼の子が、父母を頼って枝からぶらさがるとい

 うのが、この句だ。虚子の〈蓑虫の父よと鳴きて母もなし〉を踏まえていよう。

    赤味噌のやうな暑さよ関ヶ原        大西  陽

  関ヶ原の戦いは九月、残暑まだ厳しい中だが、気候に関わらず、戦そのものが暑

 い。「赤味噌」の比喩が物を言う。事実、美濃の今年もさぞ暑かったことだろう。

    舞茸のどさりと鳶の重さほど        さがあとり






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