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 小熊座・月刊 
  


   2017 VOL.33  NO.385   俳句時評



      『いま、兜太は』に学ぶこと

                              武 良 竜 彦



  2016年12月に『いま、兜太は』が岩波書店から刊行された。金子兜太氏の自選自解百

 八句と、編者、青木健氏による兜太氏へのインタビュー、十人の作家や歌人俳人らによる

 金子兜太論を収める。

  金子兜太ファンや初めて兜太俳句を学ぶ人には、格好の金子兜太ワールドの案内書と

 なっている。

  現代俳句を変革し、新たな創造的地平を切り拓いたその功績に対する評価が定まった

 俳人の作品と評論に対して、その精神を深く学んで継承することと同時に、そこから派生す

 る明日への課題について考えることも大切である。

  『いま、兜太は』は金子兜太俳句世界をさまざまな視座から、多角的に論じた論文を収録

 している。苦言ともいえる批評文すら収録した青木健氏の編集姿勢と、それを受け入れた

 兜太氏の度量の深さには、敬意を表しておきたい。

  十篇の論考の中で、齋藤愼爾氏の「兜太への測鉛」は出色の論考である。兜太氏の前

 衛としての現代俳句の牽引者となった作品と思想を多角的に描き出しつつ、近年、兜太氏

 が提唱する「漂白」の思想、「アニミズム」の思想が孕む問題点について深く掘り下げて論

 考している。

  『一茶・山頭火・定住と漂白』(金子兜太・村上護 本阿弥書店)の中の、漂白と放浪の違

 いについての二人の対談内容について、齋藤氏はこう述べている。


   (略)対談の背景に、「東日本大震災」という歴史的〈現在〉を対置してみれば尚更のこと

   で、兜太のように、「山頭火はほとんど大学時代からの放浪者ですよ。生涯を放浪しな

   ければ生きていられなかった人間というのは、すばらしいと思うのです」と呑気なことを

   言えるかどうか。職業や婚姻や人間の関係によって、放浪を余儀なくされる人々への

   悲哀が希薄といえないか。そうした歴史の暗部、定住を切に望みながらもかなわず、放

   浪を強いられる人々 ― 歩く巫女や熊野比丘尼の系譜を持つ遊女たち、踊念仏、傀

   儡子、杜氏、門付芸人、行商、瞥女、海民、山民、猿楽、白拍子、非人たちの相貌が脳

   裏をかすめることはないのだろうか。よしんばそれが宗教的な行為(修業)の一環であ

   っても、むやみな放浪礼賛は「青年向き」の理論で、背後には浮草のようなロマンチシ

   ズムが付着している。(略)



  そして兜太氏が近年推奨する「アニミズム」思想にも、次のことを指摘する。


   (略)金子兜太はかつて「古池の〈わび〉より ダムの〈感動〉へ」と副題を持つ『今日の俳

   句』のベストセラーを持つ俳人として登場した。ついで「古き良きものに現在を生かす」

   論、「定住漂泊」の逆説的命題で共感者を増殖させた。昨今はアニミズムの提唱者であ

   る。

    俳壇歌壇で展開した土俗論、アニミズム志向は、故・菱川善夫が指摘したように、「思

   想的なよるべを失った現代の人間が、伝承された形や、もの言わぬ草木によせて、あ

   らたな魂の浄化作用をはかるていのもの」(「〈故郷〉という棺」『昭和萬葉集巻十八』月

   報)としか思われない。山河のすだまに身をすりよせて、それを美化しているだけではな

   いのか。次は「一草一木にも神(天皇)が宿る」領域への限りなき接近か。(略)

    放浪といい漂泊といい遊行という。だが同じく〈日常からの脱出〉にしても、芭蕉は武

   家社会の日常から、惟然坊は商業社会の日常から、一茶は村社会の日常から、山頭

   火・放哉は近代社会の日常からと、背景となる時代、社会構造の分析がなされていな

   い。(略)



  「思想的なよるべを失った現代の人間が、伝承された形や、もの言わぬ草木によせて、

 あらたな魂の浄化作用をはかるていのもの」とは、手厳しい批判だが、兜太氏の「アニミズ

 ム」論は兜太氏固有の、後期の(つまり現在の)文学的主題である。それが、兜太氏が乗

 り越えようとして格闘してきた、大衆的に広められた「花鳥諷詠」的なお題目と化すのであ

 れば、その方向性は危ぶまれて当然だろう。

  齋藤氏の論考以外では、筑紫磐井氏の「希望の星」と坪内稔典氏の「うろつく兜太―十

 句を読む」が印象的だ。

  筑紫氏の「希望の星」は、漱石の文学論を巡って表現論的に兜太俳句を論じて、兜太俳

 句の変遷を分析批評し、そこに横たわる問題を、俳句的普遍的課題の中に、鮮やかに置

 き直してみせている。氏が俳句を論じるときの視座、文学的表現論としての基本姿勢がこ

 こにも表れている。


   (略)兜太も作者として成長・変貌するのであり、前期のストイックさから後期の総合へと

   自己を拡大している。兜太自身は恐らくこれからも成長拡大していくであろう。しかし兜

   太を観察・研究する我々は、前期と後期を結びつける論理を発見しなければならない。

   これは兜太にはなく、我々だけにある宿題である。(略)


  坪内氏自身の俳句の表現方法論は、教条的な主義主張や、流通言語に絡め取られず

 自由に詠もうと意思することだ。「うろつく兜太―十句を読む」の冒頭、坪内氏はこう書い

 ている。


   (略)今、俳人・金子兜太が出回って、テレビや講演会などでなかなかの人気らしい。で

   も、彼の俳句がちゃんと読まれている感じがない。戦争に反対する正義の俳人・兜太、

   あるいは、元気じるしの大俳人が出回っているように見える。それはそれで意義のある

   ことかもしれないが、俳人にとっては俳句が一番、まっさきに俳句が話題にされてこそ

   俳人冥利なのではないか。(略)



  自戒をこめて改めて思うのだが、俳人の作品と業績から何かを学ぼうとするとき、この三

 氏のような視座を持つことはとても大切なことだ。三氏には自分独自の俳句観があり、共

 通するのは文学的な、俳句表現論的な視座である。





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