小 熊 座 俳誌 小熊座
高野ムツオ 佐藤鬼房 俳誌・小熊座 句集銀河星雲  小熊座行事 お知らせ リンク TOPへ戻る
 
  

 小熊座・月刊 
  


   2016 VOL.32  NO.379   俳句時評



      終わらない俳句の終わらない日常

                              宇 井 十 間


  神野紗希の俳句には賛否両論あるとしても、彼女の俳句がどう新しかったのか(あるい

 は新しくなかったのか)について考えるとき、以前に時評欄でも論じた口語性の問題がそ

 の一つの論点になることは不自然ではないだろう。むろんこの論点自体は格別新しくはな

 いし、いわゆる「口語性」は彼女の俳句だけの特徴でもない。それ以前に、そもそもいった

 い「口語性」とはどのような特徴をさすのかについても厳密な定義があるとは思われない。

 しかし、それら個別の論点や句の評価は別にして、書き手としての神野紗希が、俳句の標

 準的文法ないし表現の形態からある意味で自由であることは否定できないと思われる。問

 題はその自由の意味をどう解釈し、しかもその裏側にある事実は何かということである。

  ある種の「口語性」の追求は、話者(と聞き手)自体が表現の対象に含まれる点で、90年

 代に一世を風靡したニューウェーブ短歌の手法と似ている。

  「口語」表現(ないし「会話体」と呼んでもいいかもしれない)の開拓については、現代短

 歌の文体は現代俳句のそれに明らかに先行している。穂村弘や俵万智、加藤治郎、荻原

 裕幸といった名前がすぐに思い浮かぶのだが、通常彼らの作品は「口語体」という文体の

 (つまり言葉の上での)問題として論じられる事が多い。しかし、実はそれは物語論(ナラト

 ロジー)的な転換(表現構造の転換)を含意している。

  典型的な客観描写においては、俳句の話者(発話者)は自身の発話の枠外にあるか、少

 なくとも描写されるその場面には登場しない。虚子が「流れ行く大根の葉の早さかな」とつ

 ぶやくとき、そのつぶやいている虚子が大根の葉とともに読者の視界に入ってくる事は注

 意深く避けられている。葉の流れの早さに焦点をあてるためには、つぶやく虚子が目に入

 ってしまってはいけないのである。しかしこれに対して、いわゆる口語体の現代短歌では、

 そのような話者がむしろ積極的に一首の中に参入し、のみならずそこで演じられる劇にお

 いて何らかの役割を担う。


   もうゆりの花びんをもとにもどしてる

       あんな表情を見せたくせに          加藤 治郎



  ガールフレンドの「あんな表情」を思い出しつつ、その変化に戸惑っている主体の表情や

 心理の屈折がはっきりと見えてこなければ、この歌は成立しない。そしてより重要なのは、

 このような主体のつぶやきを聞いている聞き手(読者と言ってもよい)の側も、知らず知ら

 ずのうちに、発話主体と同じ空間に巻き込まれているという事実である。加藤治郎の聞き

 手は、もはや大根の葉の流れに意識を集中させる事はできない。否応なく「あんな表情」を

 見る登場人物となって、そこでのやりとりを聞かされてしまう。いわゆる「口語」表現は、そ

 のような日常空間を仮構し、そこでの共犯関係を容易に作り出してしまう。

  むろん、このような劇性の導入は、現代の口語短歌以前にも頻用されていた手法ではあ

 る。しかし、彼らがある時期から堰を切って口語を導入しはじめたときに、口語表現のもつ

 共時的な性格が、このような話者と聞き手の存在を浮き彫りにしてしまったのである。

  ナラトロジカルなレベルで話者(と聞き手)が登場し、両者の共犯関係が成立するとともに

 心理的には、そのように状況がわかりやすく共有される事によって、シンパシーが醸成さ

 れやすくなる。寝室に参入して「あんな表情」を見てしまっている聞き手は、ああなるほどわ

 かるわかる、そうだよねえと言いたい(思いたい)聞き手でもある。ニューウェーブ短歌の方

 法は、一面では、終わらない日常を生きる彼らが編み出した、心理的なトリックである。

  いわゆるニューウェーブについては、そこで使用される言葉が口語かどうかという点に注

 意が向きがちであるが、より重要なのは、その背景にある社会状況の変化であり、それに

 対応した話者と聞き手との共犯関係の成立である。それは、実はスタイルの問題ではなく

 現代的な意味での「社会性」の問題に他ならない。


   うちにおいでよ汗くさくてもいいよ           神野 紗希


  この句は、松山での句会で私が見たものである。ここでも、会話体が巧みに俳句の中に

 取り込まれている。先の加藤の歌とはやや別の意味で、エロス的な作品であろう。加藤の

 歌が男性的な視点からのエロティシズムであるとすれば、神野の句はより女性的な意匠を

 まとっていると言えるかもしれない。そしてより重要なのは、この句が読者の共感を誘うそ

 の方法である。句は、話者が聞き手に対して直接話しかけるというスタイルをとっている。

 読者は、加藤の歌の聞き手よりもさらに直接的な聞き手となって会話を聞き、話し、しかも

 場合によっては行動してしまう。おそらくシンパシーの方法として、これほど直接的な方法

 はない。場合によっては、それは非常に効果的に聞き手に働きかけるだろう。

  終わらない日常を積極的に肯定し、そこで起きる一つ一つのドラマを掬い上げるために、

 彼女は口語表現を自然にしかも積極的に活用する。「私」が「あなた」の共感を求め、それ

 によって知らず知らずのうちに何らかの共犯関係が成立してしまうという表現構造は、い

 つも本質的に同じである。

  実を言うと、ある意味で、神野紗希が作る口語性俳句は、現代俳人たちの作品からそれ

 ほど異質なものではない。もともと現代俳人の多くは、彼らのそれぞれの日常生活(広い

 意味での)に取材して俳句を作っているように私には感じられる。だとすれば、そこに登場

 する「私」や「あなた」の会話が俳句の中に現れない事の方が、私には不思議である。その

 点では、彼女の口語的な書き方そのものに、なんら非凡な点がある訳ではない。むしろ、

 素直なのである。端的にいえば、なぜ神野が口語的であるのかよりも、多くの現代俳人が

 なぜ口語的な俳句を作らないのかについて考えることの方がよほど生産的である。いわ

 ゆる「口語性」は、俳句の現在にとって当然の帰結であって、多くの俳人たちは潜在的に

 はすでに口語的に書いているのである。




                          パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
                     copyright(C) kogumaza All rights reserved