小 熊 座 2016/7   №374 小熊座の好句
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     2016/7  №374 小熊座の好句  高野ムツオ



  山本健吉に拠れば、『黒冊子』では「春雨はをやみなく、いつまでもふりつづくやうに

 する」と述べ、さらに「正月、二月はじめを春の雨と也」として、春雨と春の雨とを区別

 しているという。但し、春風、春雲などには、それはない。多くの歳時記では、正月の

 雨や雪は吉兆として「お降り」と呼び、新年の季語ともなっている。これは雨や雪が豊

 穣をもたらす現象として尊ばれていたからである。雪は米を連想させることから、特

 に愛でられていたが、現実的にも雪が多いときは山野に水が蓄えられ草木の生長が

 促される。直接大地を潤す雨もまた同様だろう。「春の雨」と「春雨」とをあえて分けた

 のは、天がもたらす恵みとして尊ぶ思いからに違いない。「春雨」の語は万葉集にも

 用いられている。

    晩年が見えて春雨強くなる          阿部 流水

  その春雨が今日もまた降り続いている。春雨には音もなくいつまでも降り、いつのま

 にか止んでいる印象が強いが、この句では、さらに強まり、永遠に止むことすらない

 ように感じられる。それは「晩年」という語がもたらす生への執着ゆえである。晩年と

 は自らの死期を意識して語られるものだが、ここでは諦観としてではなく、強まってく

 る春雨に促された生命力を伴なっている。老いの深い自覚、そして、そうであるから

 こその不屈の命のたぎりが、炎のように激しくなる春雨に籠もっている。

    五月雨の降る静けさに回る地球      小笠原弘子

  同じ雨でも、こちらは五月雨。「さ」は五月を表し、「みだれ」は「水垂れ」というのが一

 般的な語源説。田植時のありがたい雨だが、梅雨時の鬱陶しさも伴う。万物を腐らせ

 る雨でもある。この句に湛えられている終末感は、そこに起因しているだろう。自転を

 続けながら地球もまた老いを迎える。その地球の死期を人間が加速させていると読

 むのは読み過ぎであろうか。

    夜濯ぎの必ず老いてゆく手足        千倉 由穂

   「夜濯ぎ」という言葉から川音を連想するのは、おそらく私の世代までであろう。い

 や私の世代でも、せいぜい盥の水音かもしれない。二十代の作者だから、この夜濯

 ぎは洗濯機なのだろうが、やはり、どこかに水音を伴っている。前二句がどちらも老

 いが発想のきっかけであるのは、作者の年齢から自然だが、若い人にも若い人なり

 の老いの自覚というものがあるのだ。未来の老いを感じ取る、その感性の屈折ぶり

 に、むしろ驚く。

    龍神の大欠伸かな南吹く           及川真梨子

  同じ世代の作品。発想が気宇壮大。水を司る竜神は夏、雷雨に乗り天地を自在に

 行き来するが、梅雨明けには世界の果てで昼寝でもしているのであろう。その口から

 生まれる南風のなんと心地よいこと。

    手のひらの川蜷恋のうすみどり        大河原政夫


    黒揚羽水に映らば母の影           初見 優子

  川蜷の腸は黒髪に通じ、万葉集では若い女性の象徴であった。あいかわらず小熊

 座集に秀句が多い。





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