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 小熊座・月刊 
  


   2016 VOL.32  NO.373   俳句時評



      松下カロ評論に学ぶ「俳句とは何か」
              ――「震災詠」問題番外編


                              武 良 竜 彦


  新進気鋭の評論家で俳人の松下カロ氏の『女神たち 神馬たち 少女たち』が、2016

 年1月15日に深夜叢書(社)から刊行された。ロシア美術専攻というバックボーンもあり、

 芸術全般に及ぶ幅広い分野から繰り出される、ジャンルを超えて豊かに交叉し響き合う

 評論集である。

  本書に収められた 「象を見にゆく――言語としての津沢マサ子論」 は、2012(平成24)

 年、第32回現代俳句評論賞を受賞し、同年 「現代俳句」 10月号に掲載された作品であ

 る。私は、この評論を最も新しく最も信頼できる言語論的俳句表現論として読み共感した。

  2011年3月に東日本大震災が起き、俳句総合誌に大量の震災詠が発表された翌年、

 この評論文は書かれ評論賞を与えられている。そのことにとても大切な意味がある。

  ここに書かれていたのは、ずばり俳句とはどういう言語芸術なのか、そしてそれはどのよ

 うにして表現される言語芸術なのかという問いに対する鮮やかな「解答」である。

  私は俳句創作においてプロではなく素人だが、素人なりに「俳句とは日常的な伝達文や

 評論文などの散文のような意味伝達の表現を前提とするものではなく、それらから独立し

 た自立的な表現様式を持つ言語芸術である」と考えてきた。だから直接的な意味表現に

 依存する表現には一種の抵抗感がある。通常の散文的意味に還元・収斂される表現は

 芸術的な自立性を損なう危うさを孕んでしまう。一見散文的で直接的な意味の通じる表現

 になる場合も、通俗的な意味回路を遮断し、まだ誰も言葉にし得ていない何かを掴み取ろ

 うとする表現を志すものが俳句だと思ってきた。

  だから東日本大震災直後、プロの俳人たちの「多数派」が、直接的な意味伝達表現で、

 「悼み」「エール」や「励まし」等の俳句を大量に詠んだことに戸惑った。これはもう通俗的な

 スローガンと同等のレベルではないか、と。先述した、素人の私が矜持としてきた、通俗的

 な意味回路から距離を置くべきだという俳句観の欠片もなく、プロの俳人たちはこんな俳句

 を公表するのか、という違和感を抱いていた。そんな時、この松下氏の珠玉の俳句論に出

 会った。


    灰色の象のかたちを見にゆかん        津沢マサ子


  松下氏はこの句について次のように書くことで、松下氏自身の俳句観を明確に示してい

 る。


   (略)言葉は従来の意味を剥奪され、日常に散らばる品々は非日常への入り口の在り

   処を示す憑依な記号となる。(略)彼等は今、発せられたばかりで、いまだイメージュに

   なりきらない段階にある音標(シニフィアン)と創意(シンボル)の境界で、薄い膜のよう

   にふるえながら、読む者の意識内で意味付けられ、何か別個の表徴物に変身させられ

   る時を待っている。

   (略)他のシニフィアンとは響き合わない象である。意味を持たない透明な象は、キリン

   でも、豹でも、白鳥でもあり得たかも知れない。この不思議な象は、読む者を、象を見

   たことのなかった幼年時代、さらに、事物が名前を持たなかった原初の頃へと連れ戻

   すようである。

   (略)意味の裏付けを持たない津沢の象は、却って無数のシニフィエに姿を変えること

   ができるようになる。

   (略)無為の象は、読者に、読者自身のマインドに沈んでいる象と合致するシ二フィアン

   を探し当てることを強く要請する。(略)津沢の象は、沈黙することで、読者の饒舌を呼

   び寄せる。何の符合も課されていない象を前にして、読む者は、「もっとはるかにいい見

   方」(「テディ」)を捜し、自己とより深く関わるシニフィエを貪欲に追求するチャンスを得る

   るのだ。(略)シ二フィアンの連鎖を解かれた象は〈何物でもないが何物でもあり得る〉と

   いう背反的、また円環的存在として再生し、やがて読者が提示したシ二フィアンとの新

   たな連鎖へ出発してゆく。


     どこからか母来て座る日ぐれどき        『楕円の空』

     荒涼と辷りて背中枯れいたる

     水飲めばながいときたつ沼の秋

     傷つきし十一月の頭かな             『華蝕の海』

     夏きたる頭の中の赤ん坊

     麺棒を吊して秋を如何にせん

     中空にバケツを伏せて死ぬ四月         『空の季節』

     眠るべく山となりたる年月よ

     銀いろに塗りつぶしたるわが日かな



  松下氏はこのような津沢マサ子氏の俳句を、「意味の希薄化による〈表徴を負わない記

 号的事物〉の現前」であると総括する。

  通常の流通伝達言語の意味表現の散文などとは違って、意味回路が遮断された言語表

 現世界を創出し、言葉一つひとつに別の機能(驚きと発見に満ちた言葉の使い方)によっ

 て表現される俳句の本質が語られている論文である。

  流通伝達言語的な「意味」を拒絶した創造的な言語で詠まれた俳句では、東日本大震災

 直後の俳句界を席巻したような集団圧力的な同調言語とは別世界の芸術空間を生み出し

 そこには言葉として直接的に書かれていない「何か別個の表徴物」「何物でもあり得る」世

 界に、読者は精神を遊ばせることができる。「何か別個の表徴物」とは何か。

   松下氏の言葉に倣えば、「象」の表徴の可能性として掲げられていたような 「孤独、自己

 夢想、身体、不安、自棄、執着、女にとっての男、男にとっての女、人間にとっての神、悲

 嘆、野心、渇望、時間、失意、危険、美、魂、未踏の何物か、象徴そのもの、そして言語」と

 いった高次の文学的主題を、読者独りひとりが自己の言語能力で内面的に紡ぎ出すもの

 に他ならない。それは決して、他人事的「絆」「悼み」「エール」などの意味伝達に縛られた

 スローガンなどではないだろう。非被災者が被災者のことを詠むのなら、被災者の視座に

 よる右のような高次の文学的主題を、自分に詠めるかと自問する必要があった筈である。





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