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 小熊座・月刊 
  


   2015 VOL.31  NO.364   俳句時評



      改めて問う「震災詠」問題


                              武 良 竜 彦


  東日本大震災から四年半が経ちました。大震災は俳句には詠めないだろうという大方の

 予想を裏切り、その後の俳句界はある種の活況を呈しました。震災が起こった年、『俳句』

 は五月号で140名の俳人による「励ましの一句」を掲載、『俳句界』も五月号で70名の俳

 人が三句ずつ「大震災を詠む」に作品を寄せました。『俳壇』は六月号で16名の俳人の俳

 句五句とエッセイを掲載しました。

  その内容を詳細に分類してみると、強烈な喪失体験の慟哭と、それに対する非被災者と

 しての深い悼み、追悼、励まし、そしてそれでも負けないという意志の表明や、自然と人は

 それでもたくましく立ち上がるという内容のものでした。多数の有名無名の人が心を一つに

 して、同様の表現内容の俳句を大量に詠みました。大衆的広がりを獲得した日本の詩歌

 的伝統精神の、恐るべき底力を見せつけられたようで圧倒されたことを覚えています。

  だが月日が経つにつれて、果たしてそれだけで終わっていいのかという思いが、日に日

 に強くなってきました。

  純文学は震災と原発事故を次のように表現している。いとうせいこう氏の『想像ラジオ』は

 死者に語らせる表現で、これは俳句界の多数派を占めた慟哭、哀悼、励まし表現に近か

 った。津島祐子氏の『ヤマネコ・ドーム』は混血児に日本近現代史の軋轢を象徴させて、原

 発事故を迎えるに至る現在と未来の病める日本精神を炙り出す表現で、辺見庸氏の『青

 い花』は過去現在未来どこでもなく、どこでもあり得る廃墟のような虚構の浜辺を、凝縮さ

 れた思想的酩酊調で歩く男が、過去に見、現在も見、だれにも見えない真実を可視化して

 ゆく文体で、あの震災の本質を抉り出す表現であった。高橋源一郎、池澤夏樹氏他、多数

 の作家が震災体験から独自の文学的主題を掴み出して表現している。

  辺見氏の『青い花』には特に強い感銘を受けました。

  震災後のまだ手付かずの瓦礫に埋もれていた海辺と町の光景から私が感じた、生命や

 生活以上のものが根底から崩壊したような不気味さと、後々まで尾を引く言葉にできない

 厭な感じが的確に表現されているように感じました。

  震災後の俳句作品において、残念ながら同様のレベルで私が感銘を受けた「文学的な」

 作品はありません。俳句界は何か大切なものを表現できていないのではないか、という思

 いが湧き起ってくるのです。表現内容が偏り、本質から遠く外れた周辺事象詠に留まって

 いるのではないか…。

  こんなことを書くと、「俳句は短いし無理だろ、そんなこと」 「俳句はそもそも文学じゃない

 し、そんなことを詠むメディアじゃないんだから」と批判されそうですが…。

  かつて私は本誌上で、鴨長明の『方丈記』の災害被害の鋭い批評的表現と、堀田善衛の

 『方丈記私記』の東京大空襲の表現を引用し、〈時空を超えた「冷徹な観念」をもって、私た

 ちが私たちの「方丈記私記」という「文学」を生み出せる日が、いつかくるのだろうか〉と書き

 ましたが、その思いがずっと心に引っ掛かっているのです。

  俳句界が喪失体験の慟哭や、それに対する非被災者としての共感、追悼、復活復興、

 励まし表現一色になっていった中で、本誌の渡辺編集長が、そんな俳句界の多数派とは

 一線を画して、実作をもって文学としての俳句表現を示してくれたことは、小熊座という俳

 誌だけではなく、俳句界全体にとっても幸せなことだったと言えるでしょう。

  渡辺誠一郎氏は天地の生命の流動の中を生きるような、独自の文学的主題を見据えた

 俳句を詠みます。その句業を纏めた句集『地祇』がこの度俳句四季大賞に輝きました。

  その授賞式に出席してまた次のことを考えました。

  選者の一人、星野高士氏は資料にこう書いていました。

 「(略)強いて言えばまた震災関連の内容か、と頭を過ったが、彼の場合はそこに四年の歳

 月に少し醒ましてくれた描写があった(略)」

  関東大震災のとき直接的に震災を詠まず沈黙した虚子の流れを継ぐ俳人らしい感想で、

 作句の基本的姿勢として、表層的な時事詠から距離をおく伝統俳句派の俳人が共感する

 言葉でしょう。

  もう一人の選者、齋藤愼爾氏は選者を代表しての評として、当日、檀上からこう語りかけ

 ました。

 「本当の震災詠はまだなされていない。過去の戦争のことだってその本質に迫るべく戦後

 七十年も経って、まだそれをテーマに詠み続けている俳人がいる。そんなふうに長い時間

 が必要です。震災詠はまだまだこれからの課題です」

  今の俳句界に、こういう炯眼の俳人が一人でもいることに希望を感じました。断るまでも

 なく『地祇』は震災詠の句集ではなく、それを超えています。本誌では特集が組まれて的確

 な評文が掲載されました。その各氏の優れた評言の総括めきますが、渡辺氏は震災をこ

 う詠んでいます。


   地球にも拍動のあり犬ふぐり      誠一郎

   津波とは海還ること力草          〃 

   フクシマの黒旗となりぬ黒牛は      〃 

   地の揺れは虫の血の揺れ梅ひらく    〃 

   地の底に行方不明の桜さく         〃 



  地震は地の拍動と捉え返され、津波は地と邂逅を繰り返す時間の中に置き直され、原発

 事故の犠牲となった命のためには静かな「黒旗」を風にはためかせています。


   夏草の被曝に病める父郷あり      誠一郎

   美しき被曝もありや桃花水         〃
 


  渡辺氏の父の郷里は福島で「桃花水」とは雪解水であり、水量を増す春の川の水です。

 その「美しき被曝」という表現は、俳句界に溢れた直接的で表層的な詠嘆調と一線を画す

 文学的香り高い表現の水準を示して余りあります。凌辱された季語(歌人・佐藤通雅氏の

 言葉)は渡辺氏のこの句によって一度死んだことが文学的に記録されたのです。





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