小 熊 座
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 第八回 佐藤鬼房顕彰全国俳句大会シンポジウム


           
 鬼房俳句の諧謔について 


                               平成27年3月22日
                                於 塩竈市ふれあいエスプ塩竈

 本シンポジウムは、第八回佐藤鬼房顕彰全国俳句大会において実施された。




                
パネラー  栗林 浩、矢本大雪、宇井十間、関根かな

               司  会   神野紗希


 司会・神野紗希

  今回は、「鬼房俳句の諧謔について」というテーマで、みなさんにお話をうかがいなが

 ら、鬼房の句、それから鬼房を通して諧謔について考えるということができればと思って

 おります。といってもそうですね、諧謔ってまずなんなんだ、みたいなところからやり始

 めると本当に時間があれなんですけども、非常に簡単に、たとえば辞書で引きますとで

 すね、ブリタニカ事典ではですね、おもしろさと共感とが混じり合った状況を描写する、

 言葉または動作による表現。機知や滑稽とおなじく笑いを引き起こす。ということで、カ

 ッコして英訳としてはユーモアという言葉で訳されております。諧謔とユーモアというのも

 厳密にいえばもちろん違うわけで、そのへんの違いをまた掘り下げていけばきっと、海

 外のユーモアとは違う日本の俳句の諧謔とはなんなのかということも、おそらく見えてく

 ると思うんですけれども、一方で鬼房の俳句というのは、どちらかというと諧謔というよう

 なイメージとは少し遠いイメージを持っていました。どちらかといったら非常に真面目で

 真摯な俳句、ポエジーを目指した真面目で真摯な俳句というイメージのほうが強かった

 ので、ちょっと諧謔という題をいただいて、「ほうほう、鬼房の諧謔ってなんなんだろう」と

 考えたんですけども、そうですね、みなさんお手元の資料をご覧下さい。今日はパネリ

 ストのみなさんに、三句ずつ、これは鬼房の諧謔を語るにぜひあげたい、という句をあ

 げていただきました。そして、裏側を見て頂くと、いくつか文章を引用してきています。鬼

 房の諧謔にまつわるものをいくつか持ってきたんですが、その後ろからふたつ目を見て

 頂けますでしょうか。かつて組まれた佐藤鬼房特集で矢島渚男さんが寄せていた『何處

 へ』の一句「うらがなしい諧謔」(「俳句」一九八五年七月)〈雨漏りのわが頭蓋あり杉菜

 原〉、という句に対して、これは「二ひねりくらいしたうらがなしい諧謔だ」という風に述べ

 ています。そこからさらに、「だいたい悲壮なヒューマニスト鬼房にとって諧謔はいつも

 遠いものであったのだ」という風にも語られています。基本的にどちらかというと鬼房と

 諧謔というのは遠いものとしてとらえられているような感じが私は資料を管見して感じま

 したけれども、皆さんの感じ方、いかがでしょうかということも含めて今日はうかがって

 いきたいと思います。では、そうですね、どのようにうかがっていこうかな。それぞれ鬼

 房俳句の諧謔、諧謔とひとことでいってもいろんなタイプの諧謔があって、渚男さんはう

 らがなしい諧謔、という風に鬼房の諧謔を定義していましたけれども、たとえば、栗林浩

 さん、この三句、あげていただいていますが、これは、なんというか、老人の諧謔という

 のでしょうか、老いや病床での場面に特に特化したものが選ばれているかと思うのです

 が、そのあたりちょっとご解説いただければと思います。いかがでしょうか。

 栗林浩

  いま、紗希さんが諧謔についての定義を話されましたけれど、なかなか一言ではいい

 にくくて、私もこの宿題をいただきましてから諧謔とはなんなのか、辞書も開きました。

 単なるユーモアではない。もうちょっと奥があって、苦節があってね、寸鉄人を刺すよう

 な言葉があったり、いろいろあるんだと思いますね。でも、やっぱり漠たる定義でして、

 その結果、今日お手元の、皆さんお持ちの、私ども四人が選んだ句というのは、あ、五

 人ですか、紗希さんを入れて、まちまちですね。私はね、せいぜい二つか三つは合うん

 じゃないかと思っておりました。

 神野

  重なっているのは〈蟹と老人詩は毒を持て創るべし〉だけですね。

 栗林

  そうですね、矢本さんと関根かなさんがそうですね。私も三つあげたんですけども、諧

 謔の定義の中で、先ほど紗希さんがおっしゃった、事典にも出ているのですが、ブリタ

 ニカも後ろのほうにフロイトの意見が出てるんですよね。自己の不幸せを軽減するよう

 な笑いを諧謔の一要素としているとありますね。その点で調べていきますと、鬼房先生

 にはその意味での諧謔の句が沢山あると分かりました。実は私は鬼房先生の句集全

 部読んで、ユーモアとか諧謔の作品は少ないという風に思ってたんですが、今のような

 自分をじっと見つめてその不幸というか、いたらざる点というか、それを自分自身で軽

 減するような笑い、自分自身を笑いにするような、そういう句だったら、これはものすごく

 あるな、という風な思いになりました。それをあげていきますと、沢山ありすぎて困るん

 ですけれども、一番多いのは、『瀬頭』の頃だと思います。先生が蛇笏賞を得られる前

 後の句ですね。そのあたりが非常に多いということに気が付きました。で、そういうもの

 を選んでいいんですけれども、私はそれよりももうちょっとね、どぎついというか、パンチ

 のあるというか、恨み辛みのあるというか、しかしその中にもちょっと笑いがある、そう

 いう句だけを選んでみたんです。それが〈また一人ありがたくなり朧雲〉この、ありがたく

 なり、というのは、こちらのお国のひとはよく使うんだそうですけれども、自然死でもって

 死んでしまう。寿命を全うしてね。そういうような重い意味のある言葉のようですね。です

 から場合によってはめでたいことでもあると。かなり長老、長生きされた方ですね。そう

 いうイメージがあるんだと思います。それはやっぱり厳然とした死である。でもありがた

 いことだと。最近、金子兜太先生が、生の続きに死があるというか、つまり自然に亡くな

 っていく方々は、生と死がそのままつながっていく生の延長である、というようなことをお

 っしゃってますね。それで、それに対して戦争、それから津波や地震もそうです、テロも

 そうですが自分が覚悟しない時期に、自分の意志に反して生を絶たれてしまう場合、そ

 れはまさに悲劇的な死であって、そういう場合は生がそのまま死へ続いていかないなあ

 と、どうか我々人間は生からそのまま死へ続くような自然死でありたいな、ということを

 いっておられまして、おまけに、自分は全然死ぬ気がしないんだよ、ということを兜太先

 生はおっしゃっていましたけども、それが一句目でして、非常に深い意味があってパン

 チがあると思います。こんな調子で私だけしゃべると大変なんで、ここで一回おきましょ

 うか。

 神野

  はい、そうですね。この「ありがたくなり」はもう一句おなじ『瀬頭』にあるんですよね。

 〈除夜の湯に有難くなりそこねたる〉。 「朧雲」の方を上げたのは、何かあったのです

 か。

 栗林

  これはですね、除夜の湯でありがたくなるのは自分自身のことなんですよね。そうで

 はなくて、こちらにあげたのは、たぶんご自身が知っているけれど先生ご自身ではない

 あるひとということなんで、もうちょっとリアリティがあるなと。

 神野

  やっぱりありがたくなるという言葉自体、ある種のアイロニーを抱いている言葉で、そ

 れを句に引き込んだというところがまさに諧謔が出ているのかなとうなずいたしだいで

 す。ではそうですね、矢本さんいかがでしょうか。この中でまず一句といいますと。

 矢本大雪

  えっと、ぼくの注目したのは、まあ、辞世の句のようにも見えますけれども、〈またの世

 は旅の花火師命懸〉というこの句ですね。これ非常に構造がおもしろくてですね、いま

 生きている自分が次の世では、まあ、またの世といってますから、もう一度生まれ変わ

 ったら、旅の花火師になるんだと、それで命懸けでやるんだ、ということをいっているわ

 けです。実はこれなんのことはない、今私が、つまり鬼房がですね、俳句をやっていると

 いうことが、花火師のようなものだということを、非常によくわかっているわけですね。し

 かも鬼房は真面目に命懸けでやってると、だから私はもう旅の花火師なんだと。「また

 の世は」が、実は今の世のことなんだと、だから俳句を作っているのは花火をあげてい

 るのと同じことですよ、というように鬼房はいっているように思うんです。だから、またの

 世は、というのは意外と辞世の句のような感じをさせますが、自分の自負、私が俳句に

 対してやってきていることは、これだけ命懸けできちっと真面目にやっているんだよ、と

 いうことをユーモアを持って、まあ諧謔的にいっているんだと思うんですね。だから、ま

 あ、この花火師に本当になりたいのかというと、そうなんじゃなくて、実はもう俳諧、俳句

 が相当命懸けでやってて厳しい、ということを鬼房自身がいっているんじゃないかな、と

 思いました。

 神野

  ありがとうございます。あの、ふつう諧謔って、笑いにぱっとつながっていくかというと、

 そうではなくて、ちょっとユーモアという言葉よりも少し、まあ会得の微笑なんて山本健

 吉はいいましたけれども、ちょっとその、明るい笑いとはまた違うものですよね。この「ま

 たの世は」の句なんていうのは、非常に真面目で真面目で、あの本当に真面目な句な

 んですけれども、先ほどの資料の裏に書かれている、いくつか引用しているところの、

 最後の文章を見て頂きたいんですけど、1985年の角川の『俳句』で、佐藤鬼房と三橋

 敏雄と磯貝碧蹄館が、なんと結構長い座談会をしていて、これは『何處へ』という句集

 が出たことを記念しての座談会だったんですが、そこで 〈詩は毒を持て創るべし〉 、か

 なさんと矢本さんがあげてらっしゃる句について語っている中で、鬼房自身が自分の諧

 謔、俳諧性について語っているくだりです。その一部をとってきたんですが、ちょっと読

 ませて下さい。「俳諧というかユーモアということをいいましたけど」これ、佐藤というの

 は鬼房です。「私の場合は最初からそういう風につくるんじゃなくて、なんかこう、真面目

 に真面目に追い込んでいって、しまいにふっと滑稽になってしまう俳句なんです。原型

 はものすごくくそ真面目なんですよね。そのためになにがなし、悲しみのようなものも滑

 稽といっしょに出てくるの」という風に自分の句を鬼房自身が評しています。その真面目

 に真面目にというところでいくと、まさに花火師の句なんかは、そういう意味での滑稽、

 諧謔があらわれている句なのかなという風に、今うかがって思いました。

 矢本

  ぼくはあの、鬼房の全句集を読んでみますとやはり、非常にユーモアにあふれている

 ということを感じるんですよね。しかもくそ真面目だと。そのくそ真面目さが通り越してい

 って、特にぼくのあげた三句は、生と死ということとをどちらの面からも、こう、行き来し

 て見てるというような句なんですけれども、他の句なんかでも皆さんがあげた句なんか

 でも、そうですよ。非常にくそ真面目にしかも俳諧性あふれるというか、そういう風な句

 が多い。だから、ユーモアもものすごく感じるし、このあたりの原因を考えるとですね、

 自分の持ってる質というのはもちろんあったんだと思うんですけれども、若い時に渡辺

 白泉の指導を受けてるんですよね。あの、〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉または〈憲

 兵の前で滑つて転んぢやつた〉とか、そういう句を作るひとの指導を受けていた。これも

 ね、関係はあるんだと思いますし、それから渡辺白泉のような作り方をしてもいいんだ、

 ということを自分で受けとめた、ということで鬼房があるんだと思います。だから非常に

 表現が自由で、そのなかに自然と、鬼房の人間として持っているユーモアみたいなもの

 が、非常ににじみ出てくると。だからぼくは色んな鬼房の句を読んでると、諧謔といわれ

 ると、非常にこう、くそ真面目にみんなもう、考えてしまいますけれども、滑稽とかなんか

 でいうと、そういう句がいっぱいあるんだと思うんですよね。

 神野

  ありがとうございます。ちょっと転じて、宇井さん、いかがでしょうか。いいたいことがき

 っとあるでしょう。

 宇井十間

  いいたいことということではないですけど、選んだ句と関連させて、だいたい皆さんと

 同じくらいの長さの時間でまとめてみたいと思います。まず、諧謔という言葉は、非常に

 便利な言葉で、私の印象では都合が良い時に都合の良い意味に使われてしまってい

 るような気がします。つまり、かなり恣意的な使われ方をする言葉なので、諧謔ってなん

 ですかと聞くと意外とはっきりとした答えがかえってこないのですね。それから、もう一つ

 いうと、俳人にとって「諧謔の名手だ」といわれることは、必ずしも褒め言葉ではないの

 ではないでしょうか。ある俳人の作品について、諧謔性を読もうと思えば、だいたい読

 めてしまうというところがある。しかしそれは、場合によってはほかにとりたてて目立った

 主題や特徴が見つからない場合に、当座の褒め言葉として使われる場合も多い。つま

 り言い方を変えると、諧謔性というのは、半分は読み手の側の態度によって定義される

 ものであるという風に考えていいと思います。さてその点はまず置いておいて、その諧

 謔という言葉そのものの意味はだいたいどういうものか、この言葉は通常どういうふう

 に使われているかというと、これは多少とも私の感覚でもうしあげますと、ひとつは、単

 なるユーモアではなくて、非常に庶民的なユーモア、時に皮肉やカリカチュアを交えなが

 ら、通常は生活苦や人生の悲哀をやわらげるようなおかしみの表現を目指すものが多

 い。しかも、もう一つの特徴は、普通にいうユーモアとはちょっとちがっていて、共同体

 のなかで共感的な感覚に働きかけて、暗黙の了解とか暗黙の理解に基づいたなんら

 かのおかしみを指すことが多いような気がします。いいかえると、それがどういう風にお

 かしいのかが、当人達にはもちろんなんとなくわかるんだけれども、その外にいる人達

 にはわからないことがしばしばあるということです。もう一度簡単にまとめてしまうと、ち

 ょっと簡単にまとめすぎかもしれませんが、諧謔というのは庶民性と共感によって特徴

 付けられるような共同体的なユーモアを示すものと理解してとりあえずは良いと思う。さ

 てそれで、今これまでの話を聞きながらメモをとっていたんですけども、その中でいくつ

 か気になることがでてきました。まずフロイトの話は、これはインターネットで出てくるん

 ですか?

 神野

  いや、百科事典ですね。百科事典の説明として一応あげましたということです。

 宇井

  素朴な疑問として、フロイトって諧謔という日本語の言葉を知らないですよね。フロイト

 の言語はなんだったのかなと思って聞いていました。なんですかね、アイロニーですか

 ね、ユーモアですかね。

 神野

  ユーモアですかね。

 宇井

  そうすると、そもそも諧謔についての話とはちょっとちがうような気がしますよね。ユー

 モアというのは、日本語でいう諧謔とかならずしも同じではないですから。まあしかし、

 自己の不幸を軽減するような笑いというのは、今まとめた諧謔の意味と割と合っている

 といえば合っていると思いますが。それともう一つ、諧謔、ユーモア、それからアイロニ

 ーという言葉がありますが、アイロニーというのはもう少し知的なもので、諧謔というの

 はあんまり知的なことには訴えかけないことが多い気がします。諧謔というときは、なに

 か身をゆすってお互いに笑いあうような、そういう情景がうかんできますね。これは、共

 同体的ないし庶民性と先ほど申し上げたことと関連すると思います。ユーモアにしろ、

 アイロニーにしろ、むしろ知的な側面が強調されがちなのに対して、諧謔というのはもっ

 と身体的な傾向があるのではないでしょうか。これは、鬼房だけでなく他の俳人につい

 て考えるときにも、とても重要な点である気がします。たとえば、宮崎駿の「千と千尋の

 神隠し」という映画に出てくるカエルがいますね。あれは、ユーモラスといってだれにでも

 (場合によっては外国人でも)通じると思うんです。しかし、同じ映画にたとえばカオナシ

 という妙なキャラクターが出てきます。カオナシはユーモアではないと思うんですよ。しか

 し、諧謔といえばいえるかもしれません。諧謔という言葉そのものについてはそれくらい

 にしまして、さてそれで、自分が鬼房(とその諧謔)についてどう考えるかというと、諧謔

 というのは半分読み手の側の態度によって決まると私はいいましたが、私自身の態度

 はどうかというと、鬼房に諧謔を読みとらない、というのが私の態度なのです。したがっ

 て、鬼房の俳句というのは、ここでいう諧謔性からは非常に遠いものである、むしろそう

 いうものを徹底して拒否しているところに鬼房らしさがある、という風に考えたいと思い

 ます。そういう俳人の作品について、諧謔性というものが本質的であるとはとてもいい

 難い。このことをもう少し別の角度からいうと、鬼房俳句の諧謔性という今回のテーマ

 は、さらに別の意味から鬼房の重要な特徴を明らかにしてくれるかもしれない。というの

 は、それを諧謔と読みたいひとは、諧謔性であるという風に読んでしまうんだけれども、

 鬼房はそれを、むしろそういう共同性からから逃れていくような、神話性ないしミソロジ

 ーと時々いわれるような、そういうタイプの俳句を沢山つくっているひとではないか。さて

 その上で、私が選んだ第一句についてです。〈襤褸(らんる)をまく……〉これは、選句は

 配られているんですか。

 神野

  配られています。襤褸(ぼろ)ですね。

 宇井

  ああ、「ぼろ」と読んでもいいのでしょうが、「らんる」のほうが語調が良いのでそう読み

 たいのです。〈襤褸(らんる)をまく赤ん坊と寝てやはらかし〉というのがずっと全句集を

 読んでいて少し引っかかったのです。それは、この前に〈吾子生まる山河はもとのまま

 凍り〉ていう句がありまして、その後に続けてこの句が出ていて、この二句が『名も無き

 日夜』句集の中にならんで掲載されています。それで、この句についていうと、「襤褸」っ

 ていう固い単語に対比して「やわらかし」という和語が使われているというところに軽い 

 諧謔性が読み取れる。いいかたをかえると、「やわらかし」でほっとするところがあるん

 ですね。この句は、自分のこどもが産まれたということを報告している、ほほえましい句

 に見えるかもしれないけれども、山河とか襤褸という鬼房的な言葉が、それとはちょっと

 違う読みを要求する。ぼろきれにくるまった赤ん坊と寝ていてやわらかく感じたというだ

 けの句だけれども、それがなにか日常的ではない、ミソロジカルな神話的な事件として

 感じられるのがこの句の魅力なのではないかと。そういう二重構造を考えると、鬼房の

 なかに諧謔性を読むということが、どれだけ生産的なのかは非常に問題があるのでは

 ないかと思います。以上です。

 神野

  はい、ありがとうございます。確かに、鬼房に諧謔性があるかどうかという問いはあま

 り面白くないけれど、鬼房に諧謔があるとしたら、一体どういう種類の諧謔だろうかとい

 うことを考えるのは、少し意味があることであって、やっぱり、諧謔といっても、じゃあ、 

 機知と滑稽と諧謔はきっかり三つにわけられるものかというと、そうでもないですよね。

 ひとつ、これだとということをはっきりいえないものですので、ですから鬼房の諧謔といっ

 たときに、どんな種類の諧謔なのかという話ができればいいかな、と思うんですけれど

 も、たとえば宇井さんにあげていただいた〈襤褸をまく赤ん坊と寝てやはらかし〉というの

 は、襤褸という、まあぼろきれですよね。ぼろきれの中に赤ん坊がいるんだけど、それ

 がやわらかい、まあプラスのイメージですよね。貧しい襤褸というものに対して、赤ん坊

 が生きているやわらかさ、プラスのイメージを組み合わせるという、なにか貧しさのなか

 に開き直る姿勢というものが、ひとつ鬼房の諧謔について語るときに、みなさんあげて

 いただいた句に比較的似通って流れているところじゃないかなあとも思ったんですけれ

 ども、特に私のあげた句なんかはそうですね。〈夏草に糞まるここに家たてんか〉それ

 から〈頭もて氷柱欠きたる父貧し〉特にこの夏草の句はまさに襤褸の句とちょっと共通

 するところがあって、この夏草の大地に糞まると非常に強い表現を使っていて、その場

 所にこそ自分の家を建てるのにふさわしい、という風に逆に開き直っている、何か貧し

 さとか北の大地で生きているという、ちょっと中央からははずれてこの地で生きていると

 いうことを、開き直ってとらえているたくましさが、反骨の諧謔とでもいったらいいんでし

 ょうか、なにかそういう意味で鬼房の諧謔を考えてみてもいいかなあという風に思って

 はおります。では、関根さんいかがでしょうか。たとえば蟹と老人の句、矢本さんとお二

 人でお取りなんですけれども、この句でもよろしいですし、もし、特にいいたいことがあ

 れば。

 関根かな

  小熊座同人の関根です。よろしくお願いします。奇しくも昨年も……テーマ何でしたで

 しょうか。

 神野

  愛ですね。佐藤鬼房と愛について。

 関根

  そのときも、奇しくも矢本さんと一句重なったんです。〈かまきりの貧しき天衣ひろげた

 り〉という句で、今回はどうかなあっていう。重なるような重ならないような、非常にこう、

 読めない。みなさんどのような俳句を選んでくるのか、とても読めない。それだけに諧謔

 というテーマが困難な、またも困難なテーマだったと思います。先ほどから諧謔につい

 て辞書的な意味はずいぶんお話しに出ているのですが、どうも私自身、鬼房俳句と諧

 謔は強い一本線で結ばれないような先入観があって、しかしながら私が選句した俳句

 は、六十代初めから七十代初めにかけて作られた句が主に集中してしまいました。第

 七句集の『潮海』、第八句集の『何處へ』、第十句集の『瀬頭』。老年期ですね。若かり

 し頃の俳句もかなり読んではみたんですが、なんとなくその諧謔という意味の根源に立

 ち返れば、どうしても老年期のほうに引き寄せられたというか、より諧謔味をおびている

 と感じた次第です。この、蟹と老人の俳句なのですが、裏の資料にも載せて頂きました

 が、今日も実はシンポジウム、俳句大会が始まる前に、小熊座のお仲間と、この俳句

 についてお話したんですが、「老人詩は毒を持て創るべし」だけであれば、諧謔味はな

 いよね、諧謔味のある俳句としては選べないよね、と。でもこの蟹の唐突な出現が私は

 かなりのインパクトを感じ、諧謔味のある一句と感じ選びました。この『何處へ』第八句

 集なのですが、出版されたのはちょうど鬼房が仕事を辞した後でして、かなり自由な時

 間が増え、俳句への想念にさらにエネルギーが増した時期でもあったのかなと思いまし

 た。旅に出る機会も多くて、『何處へ』というタイトルでもあると思うのですが、代表的な

 ものに〈下北の首のあたりの炎暑かな〉とか、みちのくを旅した俳句が非常に多く収めら

 れているなかで、この蟹と老人の俳句は、まあ老人という言葉であればこそ毒という言

 葉が効いてくるというか、たとえば二十代の若者が、毒という言葉を用いて俳句を作っ

 たとしても、この句の持つインパクトのようなものを読む者に与えないような実感を持ち

 ました。かなりの毒性をもっているのですが、かなりやはり鬼房自身が語っている通り、

 かなり真面目に作られているな、という印象を持ちました。この十七音のあとに、実は

 絶えず毒を持って創ってきた。老人の範疇に入ってもなお毒性を増す、という鬼房のつ

 ぶやきが聞こえてきそうな俳句と思ったんです。ですから、なぜ諧謔、なぜこの俳句が

 諧謔ということになると、蟹なんですね。やっぱりこの蟹の唐突な出現というか、この蟹

 と時を共有する老人と自らをなぞらえた表現に、なんともいえない諧謔性を感じた次第

 です。蟹と老人の共演にえもいわれぬおかしみを感じる、さらにもって「毒を持って創る

 べし」と断言をしている。「つくる」も、にんべんの「作る」じゃなく創作の「創」なんですね。

 この字においても、鬼房のひとかたならぬ俳句への思いが伝わるような気がしました。

 神野

  そうですね、本当に真面目な、この蟹と老人の句なんかは、私は「あ、これ諧謔として

 出してきたのか。しかもお二人も」と思って、とても驚いた句だったんですね。確かに、

 「蟹と老人」をおもしろい、諧謔味があると見るかどうかというところで意見が分かれると

 思うんですけども、たとえばさっきの座談会でも、磯貝碧蹄館はこの句すごい褒めてい

 たんですね。別に諧謔味があるといって褒めたわけではないんですけれども、「蟹と老

 人がすごく良いんだ、蟹が」ていっていて、啄木の〈蟹とたはむる〉の歌を出して、その

 蟹と通ずるところがあるといっているんですね。〈東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬ

 れて蟹とたはむる〉という啄木の蟹である、その蟹とはまた少し違った反逆精神がある

 という風にはいっているんですけど、なんとなくこの蟹とたわむる啄木は若かったけれど

 私は老人で、というところにまあ諧謔を読もうと思えば読めるのかな、でも「創る」がこの

 創作の創であるあたりなんか本当に真面目で、逆にいえば真面目に真面目に、道化の

 ようにも見えるぐらいのこの真面目さというものを、諧謔と呼びたいという私達なのかも

 しれません。これ矢本さんにもぜひこの蟹と老人のことをお伺いしたいんですけど、や

 はり蟹ですか。

 矢本

  啄木はまあ、話にも出ましたけども、鬼房というひとは私からいわせるとちょっとずる

 いひとで、非常に真面目につくっているように見せかけているんですよね。ですから、ど

 の句もちょっとおかしみが出て来るというところがありますし、この蟹と老人にしても、そ

 れから詩は毒を持て創るべしという文言にしても、どちらも非常に生真面目に書いてい

 る風に見せながら、当たり前のことをいっているようなところもありますし、普通の蟹を

 取り上げたりすると、例えば阿部青蛙なんかだったら、その蟹の面白さとかなんとか、

 蟹が人間のようであるなんてことを、書いたりするんだろうと思うんですけれども、鬼房

 は別に蟹のことについては何もいっていない。ただ、蟹と老人と。この老人はやっぱり

 自分を投影してるんだろうなと思います。ですから鬼房の句の対象というのは絶えず自

 分であって、そこを非常に真面目に書いてるよという風に見せかけていながら、当たり

 前の非常に俳句的なこともいっぱい書いている。いっぱいしゃべっていると。ですから

 ね、本当に真面目なだけで終わってる句じゃないんですよ。全部が真面目を通り越して

 逆転させてみたりとか、そこが鬼房の、まあ言葉は悪いですけれども、ずるいところでも

 あるんです。これはわざとずるくやっているんじゃなくて、鬼房が真面目に書けばずるく

 なっちゃうんですよね、やっぱりね。それだけまた、ユーモア感覚というものも身に付け

 ていたひとだと思います。

 神野

  ありがとうございます。栗林さんはこの蟹と老人の句に関してはどう思われますか。詩

 は毒を持て創るべし、とかちょっと私なんかは恥ずかしくなっちゃうようなフレーズなんで

 すけれど。

 栗林

  私が俳句始めた最初の先生は、磯貝碧蹄館先生でした。磯貝先生と鬼房先生、大変

 仲よくて、少なくともこの句についてものすごく意気投合したんですね。その座談会の長

 い記録を私も読んでいますけれども、いま私の頭に残っているのは、〈老人詩は毒を持

 て創るべし〉だけでして、蟹がね、すっぽり抜けちゃってるんですよ、頭のなかから。

 だからそこが難しかったんです。そのときの私にとって。今でもまだわかりません。お二

 方にはあとでまた色々お伺いしたいくらいですけどね。

 神野

  ありがとうございます。宇井さん、蟹どうですか。

 宇井

  私は、この句はわりと典型的な例だなと思って聞いていました。諧謔を読みたいと思

 って読めば読めてしまう。要するに、皆さんこの句は蟹で読んでる、蟹に色んな意味を

 託しているわけですよね。蟹で色んな先行する作品があるから、それのイメージでしょう

 か。でもこれを何も考えないでそのままテキストとして読むとそんなにおかしい句ではな

 いとぼくは思うんです。さっきいったように読み手の側の態度で諧謔性というものが決ま

 ってくるとすると、それぞれの俳句を諧謔的であると考えるのは読み手なんですよね。

 書き手に諧謔性があるというわけではない。その典型的な例だとぼくは思います。

 神野

  逆にこう、宇井さんがあげている句の残りの二つで、これはもう典型的な諧謔だという

 ものではないということですか。

 宇井

  〈鶏骨(ガラ)になりきつて意味なく笑ひけり〉にしても、〈北冥ニ魚有リ盲イ死齢越ユ〉

 にしても、老人になってからの句で、読もうと思えば老境の諧謔と読めなくもない。かり

 に『地楡』を晩年の句集と考えるとすればですけれども、要するにオレみたいな老人が

 目も見えなくなって、みたいな読み方をすれば、年を取ったひとが自分を自己劇化して

 というか、面白おかしく書いているように読める。しかしそうだけれども、そういう読み方

 をすると鬼房が死んでしまうんじゃないかという、というのが私の意図です。

 神野

  この、〈北溟ニ魚アリ〉の句は荘子の言葉を踏まえて読まれている句ですよね。北溟

 に魚ありで鵬になって南を目指していくという荘子の昔の文章があって、それを踏まえ

 て、いや私は、ということなんでしょうけど、私は北溟の魚として盲いて死齢を越ゆ、つ

 まり南へは行かないでこの北の大地にずっといるんだというような、荘子を踏まえた上

 でのパロディというか、ちょっと反骨精神を自虐的に、だけれどもその自虐が翻って、そ

 れこそが私なんだという風に語っているということですよね。

 宇井

  ようするに、今までの話でずっと出ているのは、鬼房という個人が自分をどういう風に

 諧謔的に表現しているかというところに話がずっと集中しているわけですよね。でも、鬼

 房の俳句というのは、本来、鬼房個人について書かれている句ではかならずしもなくっ

 て、自分個人について書きながら、もっと神話的なレベルの事実を重ね合わせて表現

 しているのが鬼房の鬼房らしさではないか。例えば、〈陰に生る麦尊けれ青山河〉です

 ね。あれをそのテキストだけで読まれると、おそらく俳句に慣れたひとは、あれをどう読

 んで良いのかわからないんじゃないか。一度これは大地あるいは青山河を人体と見立

 てた句なんだよ、といわれるとはじめてわかってくるけれども、そうじゃないと、どうしても

 鬼房の個人の句として読んでしまうので意味が分からないというような句ですね。だか

 ら、鬼房に諧謔を読むとすれば、可能性としては、そういう神話的なレベルがどういう風

 に生かされるかという方向に話を進めていけば、ひょっとしたら面白いことになるかもし

 れない。諧謔を個人や個人の人生に限定してしまうと、議論の内容が痩せてしまうので

 はないでしょうか。

 神野

  なるほど。私なんかは割と鬼房の人生を、もし知らないひとが鬼房の全句集を読んだ

 時に、例えばどんなものが諧謔味を持って感じられるかといえば、先ほどいったように、

 ちょっと貧しさの中にいて、それで開き直っているような、北にいて、それでも開き直っ

 ているような、そういうものに、別に鬼房の人生を見なくても作品の方に表れているかな

 あとは思いますね。

 宇井

  それは鬼房の人生が読み込まれているわけでしょう。

 神野

  そうそう。読み込まれているけれども、それは鬼房だけの人生ではないんですよね。

 ある一人の人間の人生として、句に書かれている情報になると思うので、鬼房の人生

 を参照する必要はない。そういう意味では栗林さんの選ばれている句っていうのは、そ

 の人生を少し離れても、ある程度作品の上で非常にユーモアがあると、構造上見る事

 ができる句が多いかなと思ったんですけれども、例えば〈老衰で死ぬ刺青の牡丹かな〉

 なんてのは、ああこんな句もあったんだと思って、ちょっと私もこの句を送っていただい

 て見たときに、ふっと笑いのもれた、そういう句だったんですけども、いかがでしょうか。

 栗林

  個人的にはこれが鬼房の典型だといっちゃいけないけれども、俳句であらわせられる

 諧謔の非常に良いサンプルなんじゃないかなと、実は思ってましてね、それで、諧謔は

 ユーモアなんですけれども、ユーモアだけじゃないというのは、例えば他のひとのユーモ

 アにあふれた句とね、鬼房さんのユーモアかもしれないと思われる句を並べてみると、

 ものすごく差がでるんですよ。例えばね、私は京極杞陽を調べたことがあるんですが、

 杞陽はホトトギスなんですけれども、こんな句を作っているんです。〈はしりすぎとまりす

 ぎたる蜥蜴かな〉それから〈蝿とんでくるや箪笥の角よけて〉。

 神野

  向こうから蝿が飛んできて、そのときに箪笥の角があったんで、ふっとそれをよけて飛

 んできたという、よくそれ詠んだな、という句ですね。

 栗林

  非常にユーモラスなんですけどね、そういうような句、楽しい句なんですけれども、鬼

 房先生のはまったくそうじゃなくて、一句の中で、なんか裏があるというか、深い人生が

 あるというか、そこまで作者に寄り添って読まなくても良いんだろうけれども、ついつい

 読まされてしまうと、いうのがあるんですね。先生は弱者の俳句をよく詠まれたと思いま

 すが、自分で弱さをさらけだしながら、それで自分をなぐさめた、自分を是認したと。そ

 ういう風なのが多くて、私は〈老衰で死ぬ刺青の牡丹かな〉なんて、思い浮かべるとちょ

 っとぞっとしますよね。そんな感じで申し上げました。

 神野

  なんというかこう、はっきりとわかりやすく書かれてはいないんですけども、まあ、刺青

 の牡丹をするような人生であれば、老衰ではなくて、もうちょっとこう、パッと散ってしまう

 ような人生であった、それが理想だと思っていた時期がきっとあったはずだと思うんで

 すけれど、これは鬼房だとはいわないですけれど、でも老衰で死ぬ、そんな刺青の牡丹

 だというところに、淡々と書いていながら、意味として繋がらないわけですよね。老衰で

 死ぬようなものではない刺青の牡丹が、そのまま順接で結ばれている、というところに、

 やっぱりここにユーモア、戯画化……戯画化ではないですね。アイロニーですかね、皮

 肉がこめられているかなという風に思います。構造上それがしっかり指摘できるところ

 が大変おもしろいなと思いました。それからかなさんの、〈もし泣くとすれば火男頬かむ

 り〉や〈田楽のあばたに話しかけてゐる〉の句っていうのは、これも確かに「ひょっとこ」

 や「あばた」っていう言葉が入ってくるだけで、ふっとちょっと笑みのこぼれるというところ

 が少し諧謔というか、ユーモアに近いものがあるかなと思うんですけども、いかがでしょ

 うか。

 関根

  ひょっとこの俳句なんですけれども、実はこれはひょっとこという滑稽な姿を俳句の中

 に題材として読み込みながら、しかし、笑いっぱなしじゃないんですね。笑いに終始はし

 ていない。なぜかというと「泣く」という行為が加わっていることで、泣くとすれば頬被りを

 つけたひょっとこの姿を望んでいる、逆にいえばひょっとこの姿をすれば泣くことができ

 る、ひょっとこを滑稽なものとして結論づけず、泣くことを秘めたものとして特化している

 というか、昇華しているというか、そういった諧謔味を持ちながらも、深い、重層な一句

 かと思いました。まあ確かに今あまりお見かけしなくなってしまいましたけれども、宴会

 で余興でやる方とか、間近に見たことあったんですが、一瞬場は笑いに包まれるんです

 けれども、やっぱりひょっとこっていう姿って、こう切ないというか、笑いには、切なさが

 いつもひそむ。笑いとは切なさをかき消すためのもの。悲しみを笑いに転化させて切な

 さや悲しみをかき消している。ですからもの悲しさをかなり含んだ一句でもあるのかと思

 います。それは資料にも、「うらがなしい諧謔」と『何處へ』の句について語られていると

 ころがあるのですが、背景にある悲しみ、その悲しみをもっと強調するべきものとして諧

 謔を用いるというような手法を感じた一句でした。ですから手放しで笑えないというか。

 神野

  そうですね。例えばさっき、栗林さんがあげて下さった京極杞陽の句なんかも、諧謔

 味のある句だと思いますけど、あれは決してうらがなしくはないですよね。あれはまた別

 のタイプの諧謔だと思うんですが、確かに鬼房の句のいくつかにみとめられる諧謔って

 いうのは、杞陽のそれとは違って、やはり、まさに渚男さんがうらがなしいといったよう

 に、なにか重さや暗さを引き摺っている諧謔であるというのは、確かにいえると思いま

 す。資料の中でですね、今のお話にもちょっと近かったんですけれども、山本健吉の講

 演録『滑稽と諧謔』、角川の「俳句」1978年12月号から引用しているもので、滑稽や

 諧謔について一番語ってるひとといえば山本健吉だと思うので、どれを引いてもだいた

 いこういうことをいっているんですけども、「俳諧の滑稽あるいは諧謔ということは、決し

 て、ゲラゲラと笑うだけではなくて、その先にはもっと洗練された微笑の世界、さらには

 また、人生のさびしさを、染みとおるように感じている心というものがあるのだと思いま

 す。」という風にすぱっとまとめているんですが、こういう基本の諧謔ってなんとなくこうい

 うものだよ、という感覚的なところを述べている文章ですね。かなさんがあげてくださっ

 たひょっとこの句は、ちゃんとポーズが入っているところが諧謔だなあ、と思ったんです

 ね。「もし泣くとすれば」の「とすれば」というところですね。ひょっとこが泣いている頬被り

 だというのはもしかしたら真面目に詠んでいるのかもしれませんけど、もし泣くとすれば

 ひょっとこ頬被りをしてという風に、ポーズをとって語っているところが、ここに鬼房って

 いうんですかね、作者のポーズがしっかり言葉の上に出ていて、そこに確かに諧謔味を

 少し含ませてつくられている句だっていうことを証明してくれている表現じゃないかな、と

 いう風に思いました。では、次は矢本さんの〈死が見えて死後が見えざる黴の夜〉も、う

 かがっておいてよろしいでしょうか。

 矢本

  この句も、よくわからないようなところがあるんですけれども、「黴の夜」がわからない

 ですね。でも、まあ湿っぽい、黴がはびこりそうな、自分のからだにも黴がつきそうな夜

 だ、ということだろうと思うんです。まあ鬼房の若いときからの闘病生活とか、それから、

 もう死を意識させるような重大な病気だとかいうようなものが、やっぱり鬼房の俳句をつ

 くっているんだと思うんですね。それは宇井さんが色々いわれて、鬼房の句の諧謔性と

 いうことを考えるときに、ぼくなんかはやっぱり鬼房は自分の貧しさと悲しさ、それから

 やっぱり死というものを見つめることによって、この独特の諧謔性みたいなものが生ま

 れてきてるんだろうと思うんです。もう平凡な当たり前のことなんですけれども、ただそ

 れを諧謔まで昇華するときには、鬼房のもっている自分の創作の意欲とか、それから

 生き方考え方というものが、諧謔性につながってくると思うんですね。ですから鬼房は常

 に死を見つめていたし、ところが、死が見えているんですけれども、その死後が見えな

 いというのが非常におもしろいですよね。死の先が見えないというところが、これはなん

 なんだろうなあ、と思うと、まだ死なないんだろうな、というくらいのところなのかなと思う

 んですけれども。ですから、死が見えて死後が見えない、じゃあ、まだぼくは死なないん

 だ、という風に思ってるのかな。もう鬼房の意外と単純でユーモラスな考え方というもの

 は、そんなところに出てきて、それを黴の夜だというところに象徴させてしまっていると

 いう風に思うわけなんです。ぼくなんかは黴の夜なんて使えませんですからね。まあぼく

 はただの凡人ですから、ぼくが使えないからといって全然関係はないんですけれども、

 このへんが鬼房のうまいところだろうな、と思うんです。

 神野

  宇井さん、しゃべりたいことが。

 宇井

  いや、いま聞いていて思った単純な質問なんですが、俳句は諧謔であると当たり前の

 ように俳句の世界ではいわれていたり、俳句の歴史の中で俳句は諧謔であるという風

 に言われ出されたのは、実はいつごろからなんだろうかといま思ったのです。わりと最

 近なんじゃないかなという気がする。単純な質問なんですが、栗林先生がいらっしゃる

 のでお聞きしてみたい。あるいは矢本先生、神野さんもいちおう国文ですからご存知で

 すよね。

 栗林

  私は国文じゃありませんので、聞きかじりですけども、やはり俳諧の連歌が出てきて

 それから談林だとかなんとかのね、なったときから諧謔が出てきたのかなあと。それで

 これは矢本先生にお伺いしたらいいと思うんですけれども、私はむしろ俳句よりも川柳

 が諧謔を最も得意とする表現形式じゃなかろうかなと思っているんですけどね、いかが

 でしょうか。

 宇井

  そうすると、仮に俳句の諧謔のはじまりを談林というふうに考えると、そもそも芭蕉は

 談林から出てきたけれども、むしろ談林調を否定して自分の作風を成立させたといわ

 れている。そうすると、その段階では俳句はむしろ諧謔的でないものと考えられていて、

 それが俳句の定義であったと思うのです。しかし、いつの間にか俳句は諧謔であるとい

 う風にいわれはじめて、ここでこういうシンポジウムが行われるくらいに、不思議と俳句

 は諧謔であるということがいわれ始めている。こういう見方がはじまったのはいつなんで

 すかね。作品史として見ると、ひとつは一茶が重要だと思うんですけど、でも一茶は本

 当に自分を諧謔と思っていたんですかね。

 神野

  特に俳諧の時代だと、当の俳人たちが沢山書き残しているわけじゃないので、本当に

 こちらの解釈の問題にもなってくると思うんですけれども、後ろの資料の筑紫磐井さん

 の文章、これも歴史の話ですよね。「古今集以来、「俳諧」は和歌の正統的なコンセン

 サスに対して常におちょくりや意外性を提示してきたのではなかったか」 ここでやっぱ

 り犬筑波集が出て来るんですけれども、〈霞の衣裾は濡れけり〉に対して「〈佐保姫の春

 立ちながら尿をして〉というやや尾籠な連歌は、俳諧の正統的な本質を提示しているよ

 うに思われる。」という風に、これ最近出た評論集『戦後俳句の探求』(二〇一五年一月

 ウェップ)でおっしゃっていますが、なにかこう正統的なものに対する、おちょくり、意外

 性、磐井さんは和歌の正統的なコンセンサスと書いていますが、それは今の時代にお

 いて考えるのであれば、和歌だけではなくてある正当的なコンセンサスというものが、

 社会にも、それから今の俳句の世界にも、かつての和歌のようにあるわけですよね。そ

 れに対する意外性であったり、おちょくりであったり、反骨であったりという形で諧謔が

 表れるとするならば、鬼房の句というのはまさにそういうタイプの句ということもできるか

 な、と思って、この文章をあげてきたところでした。ということで、色々と話したいところは

 あったんですけれども、もう時間がきてしまいました。鬼房の諧謔っていうのは逆に鬼

 房らしくないんだろうか、あるんだろうかという微妙なところを探ってきましたので、案外

 鬼房の輪郭をなぞるような議論が出来たんじゃないかなという風に思います。最後に皆

 さんに一言ずついただければと思うんですけど、鬼房の諧謔っていうのは一体どういう

 諧謔なのかっていうことなんかを、ちょっと一言、まとめていただければなという風に思

 います。まずは関根さん、いいですか。

 関根

  ちょっと私見というか私的な意見なんですけれども、こういった俳句の創作者であった

 り、とにかく文章を書いたり、まあ小説家であったりというのは、やはりなにか生真面目

 すぎてはちょっとできない作業だと思うんですね。ですから、なにかしらのやはり面白味

 というかおかしみを秘めて、逆にもの悲しいものを語ったり、を俳句の主軸とすれば、

 やはり鬼房俳句における諧謔の背景には、先ほど神野さんもおっしゃった貧しさですと

 か、それに開き直るとか、それを許容するとか、そういう自分を乗り切るために必要な

 ひとつの手法に諧謔はあったと思います。でももしかしたらものすごいユーモアの精神

 はお持ちの方だったのではないのかなと、人間の根幹の中にすごいユーモアの精神を

 お持ちの方だったと、割と今読み手が、過剰に鬼房先生の俳句を真面目と捉えていま

 すけど、実はかなりユーモアの精神をお持ちの方ではなかったのかなと、今回、諧謔と

 いうテーマをいただいたときに、鬼房俳句と非常に隔たりがあるように感じたんですけ

 ども、一句一句探っていく中で、そういうおもしろみも込めたかった、本当はもっと前面

 に出したかったのかもしれないなと。ただなにかしらのイメージが先行してしまって、真

 面目真面目になりがちになっていったのかというような印象を持ちました。非常に勉強

 になりました。新たなアプローチというか、視点を与えられて良かったです。ありがとうご

 ざいました。

 神野

  誰が考えたんですかね、諧謔というテーマは。

 関根

  編集長です。

 神野

  ああ、編集長ですか。

 関根

  私はこのテーマを聞いたとき、「えっ、諧謔の俳句ありますか鬼房に」と編集長に聞い

 たら、「いっぱいあるっちゃ」と。

 神野

  あとで、ちょっと皆で問い詰めましょう。先に宇井さん。

 宇井

  いつも俳句に諧謔を読みたいというか、談林も長い歴史的な意味ではそういう傾向の

 ひとつだと思いますが、談林的な諧謔的な解釈の仕方っていうのは、いつも俳句の歴

 史の中で回帰してくるんだろうと思います。それに対してルネッサンスというか、もう少し

 生真面目で悪いんですか、というひとたちが、例えば芭蕉であるとか、一茶も本当はそ

 うだと思うんですけど、そういう人たちがもう少し俳句の言葉の力を蘇生するような風に

 俳句を作ってきたというのが、大きな意味での俳句の歴史の繰り返しではないかと思い

 ます。先ほどもいいましたように、鬼房の俳句に諧謔性を読もうと思えば読めてしまう。

 つまり諧謔というのは非常に便利な言葉で、読み手の側が何を要求するかによってだ

 いたいその定義が決まってくることがあるんだと思います。しかし問題は、鬼房を諧謔

 の俳句と見なしてしまうことで安心してしまう部分があるいはないのではないかというこ

 とです。俳句史の中で、鬼房をどういう風に定義していったらいいのかを考えると、私は

 彼を回帰する諧謔性の波にのみこませたくはない。諧謔という言葉で鬼房を評価する

 ことで、鬼房そのものの可能性を過小評価することになってしまうのではないかというの

 が私の考えです。

 神野

  ありがとうございます。そうですね、ある単語を使って、どう読みたいか、でもどう読み

 たいってことを読者の欲望全部消した所に何が残るのかというと、やっぱりなかなか荒

 廃した世界が広がるだろうなと思うので、むしろどう読みたいかっていうことを、宇井さ

 んがどう思っているのかは、あとでゆっくり聞きたいなと思うんですけれども、俳句をどう

 読むか、読者としてどう読むかっていうこと、読者がこう読んでしまうとマズイと警鐘を鳴

 らすのももちろん本当によくわかる気持ちなんですけれども、じゃあどう読むかというこ

 とについて、建設的、前向きな宇井さんの意見がききたい。それから矢本さんどうでしょ

 うか。鬼房の諧謔とはどういう諧謔か。

 矢本

  ぼくはもっと短絡的に、鬼房は自分の貧しさや死を見つめていて、それを書いている

 と。ただ、書いた先がそこで終わらなくてですね、つまり死が見えて死後が見えざるとい

 うのは、運動が起こってしまうんですよね。つまり死というものはそこで終わってしまうと

 いうことじゃなくて、死後が見えざるということで、またひとつ先がある。ということはその

 先もまたある、というようにして「またの世は旅の花火師」という風な書き方にしても、ひ

 とつの句が連関していくような運動、つまり諧謔性というようなものを鬼房の場合に求め

 るとすれば、そういう運動が起こってしまっているというところが特徴的だと思うんです。

 ちょっとぼくは仏教をやったりしたもんですから、仏教の悟りとかという世界っていうの

 は、ひとつの境地の終わりを目指すものじゃなくて、ずっと運動の連関の中で過ぎていく

 という風なところがあるわけなんですね。鬼房の俳句もそういう生真面目なんじゃなくて

 ですね、こういう、死を見ているとか、貧しさを見ているといって、非常にぼくは真面目で

 しょう、と見せかけておきながら次を期待している。次に起こってくるムーブメントが俳句

 の中でできあがる、という風なことが鬼房の俳句の中にできあがってくる。また、それを

 鬼房は十分承知しながら、にこにこと笑いながら俳句の句を出している、というような気

 がするんですよ。ですから、鬼房の巧妙な仕掛けにのってしまっているかなという感じが

 するわけですけれども。

 神野

  ありがとうございます。栗林さん、お願いします。

 栗林

  先ほど、どなたかおっしゃられたとおり、私も鬼房先生に諧謔の句があるとは、そうい

 う見方で読んでなかったんですね。ですから今度のテーマは困ったなあ、と。たまたま

 ムツオ先生にお目に掛かったときに、「鬼房先生に諧謔の句なんてあるんですか、困っ

 てますよ」といったら、「いや、ないと思ったらないという風に主張したらどうですか」とい

 われましてね。でもね、先ほど冒頭に申し上げましたとおり、諧謔という定義をちょっと

 広げていくと、それらしい作品が先生にもあるんですね。ただし、鬼房先生の諧謔の句

 というのは、先ほど私が申し上げました、京極杞陽のような、蝿が飛んできて箪笥の角

 を曲がるというような句ではないし、中原道夫さんの〈目隠の中も目つむる西瓜割〉のよ

 うな、楽しい、明るい、そこで終わってしまう句ではない。どちらかというと私は川柳にそ

 れを期待したんですが、例えば裏のある、苦節のある諧謔という意味では、時実新子さ

 ん、これは矢本さんの専門ですけれども、〈これほどの勝があろうか喪服着て〉勝という

 のは勝ち負けの勝です。これは季題をちょっといれれば有季になりますけどね。これが

 私はものすごい諧謔だと思っていたんです。ですけれども鬼房先生の諧謔の句は、無

 理して諧謔と読んだとしても、この時実新子とも違う、京極杞陽とも違う、中原道夫とも

 違う。どっちかというとご病気をお持ちの自分の肉体の弱さを詠んで、そこでそれをよく

 見つめて救済されようとしているような句、例えばですね、〈逆立ちをしてみる頭悪き春〉

 〈スープに浮く吾が肋骨葉騒の谷〉〈吐瀉のたび身内をミカドアゲハ過ぐ〉こういうような、

 やや自虐的な句が鬼房先生の句に、私にとってはものすごく印象的に残ってしまってい

 るということであります。

 神野

  ありがとうございます。あんまり私も自分のあげた句について語らなかったんですけれ

 ども、鬼房の諧謔があるとしたら、やはりその貧しさ、もしくは今おっしゃった病気の自

 分というものを、自分や置かれた境遇や自分の住んでいる土地を自虐的にとらえつつ

 開き直っていくような、反骨の諧謔であると思いますし、非常にポーズに見えるほど戯

 画化されていますよね。さっき宇井さんもカリカチュアという言葉を諧謔のところで出さ

 れましたけれども、「夏草に糞まる」だって別に本当にうんちしたかどうか分かんないわ

 けですけど、そういう風にポーズを見せる。「もし泣くとすれば」、の「とすれば」、という

 「ありがたくなりといってみる」という風に、やはり意外とそのまま書いているようでありな

 がら、かなりカリカチュアされて戯画化された私というものが、なにか大胆に述べるとい

 うところが鬼房の俳句のひとつの特徴としては必ずあげられるものだと思いますので、

 そのへんが諧謔というものを通して鬼房の俳句を読むときの、ひとつの出口になるの

 かなという風には感じました。ということで、皆さんにお聞きする時間なんかはちょっとな

 くなってしまったんですけれども、またそれぞれのパネリストをつかまえて色々聞いてい

 ただければと思います。ということで、よろしいでしょうか。ありがとうございました。

                                                 (終)


 ○ パネリストの選んだ諧謔の鬼房俳句   


  栗林 浩  選

    また一人ありがたくなり朧雲        『瀬頭』

    いつまでも在る病人の寒卵          同

    老衰で死ぬ刺青の牡丹かな        『霜の聲』

  矢本大雪  選

    死が見えて死後が見えざる黴の夜    『鳥食』

    蟹と老人詩は毒を持て創るべし      『何處へ』

    またの世は旅の花火師命懸        『愛痛きまで』

  宇井十間  選

    襤褸をまく赤ん坊とねてやはらかし    『名もなき日夜』

    鶏が骨らになりきつて意味なく笑ひけり  『地楡』

    北冥ニ魚有リ盲イ死齢越ユ         『枯峠』

  関根かな  選

    もし泣くとすれば火ひょっとこ男頬かむり 『潮海』

    蟹と老人詩は毒を持て創るべし      『何處へ』

    田楽のあばたに話しかけてゐる      『瀬頭』

  神野紗希  選

    夏草に糞まるここに家たてんか      『名もなき日夜』

    頭もて氷柱欠きたる父貧し         『夜の崖』

    やませ来るいたちのやうにしなやかに  『瀬頭』




 

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