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 小熊座・月刊 
  


   2015 VOL.31  NO.360   俳句時評



      現代俳句にとって諧謔とは何か

                              
武 良 竜 彦


  哲学者ベルクソンは、「笑い」について次のように言っています。笑いは形骸化した制度・

 慣習、強圧的な一方通行の命令、存在そのものが持つ不条理性などを遠距離的、俯瞰的

 視線に晒したとき、そこにある精神の硬直化、類型化が顕在化し、観察者の心に心理的

 呪縛からの解放を齎すものであると述べて、笑いの持つ批評性や、社会の歪みが齎す弊

 害の改善を促す力を描き出しています。


   「引き離れてみたまえ、われ関せずの見物人となって生に臨んでみたまえ。多くの  ドラマは喜劇に変ずるであろう」
                      『笑い』 アンリ・ベルクソン 林達夫訳岩波文庫



  出発点が笑いの要素をたっぷり含んだ俳諧であった俳句は、古典から現代俳句に至る

 まで数多くの名作を生み出してきました。「小熊座」同人の作品にも、独創的な笑いの力を

 持つ名作があります。

   秋霖に人間以外みな濡れる        矢本 大雪

  この俳句のどこが笑い? と首を傾げられた方もいらっしゃると思いますが、進化した現

 代俳句の笑いは、お笑い芸人たちの表層的瞬間ギャグとは違い、ベルクソンが指摘する

 深遠な批評性と格調を湛えた文学表現になります。ものみな均しく秋霖に濡れそぼつ中で

 人間だけが傘を差したりして濡れないでいます。自然を征服し支配する西洋思想とは違い

 自然との共生的思想の傾向が強い日本人でも、自然そのものと一体であることはできませ

 ん。どんなに希求しても、人間は人間の作った人工物の中でしか生きられない。そのなんと

 も言えない哀しさと可笑しさが、じわっと心に響きます。

  次のさがあとり氏の俳句の根底には、人間に対する温かい眼差しに支えられた自嘲的

 微笑があります。

   父に似て性格悪し菊根分け        さがあとり


  見栄っ張りの人間なら、親の優れた資質を自分も受け継いでいるよと誇るばかりの見苦

 しさですが、この俳句では父に似た人間臭い「性格悪」さを、菊に託した自分の姿に発見し

 大らかに自嘲しています。欠点を詠むことで命の全的肯定の主題を立ち上げ、見栄っ張り

 達を赤面させます。

   八木山のぼくは無実の狸です       千田 稲人

  これが指示表出的言語の説明文である限り、狸がただそう言っていることしか伝わらず、

 狸くんの「無実」の訴えはだれにも届きません。論理的であることを条件とする指示表出語

 の説明文は、気の遠くなるほどの論術で、その言語が客観的真実であることを示しながら

 無限補完的に論証し続ける必要があり、「私は無実だ」という言辞には、その必要な一切

 が含まれていないからです。

  だがこれが、自己表出的言語の俳句であるときだけ、存在の悲しみから発せられた狸く

 んの訴えは、一瞬にして論理を超越した諧謔文学として、笑いと大いなる共感をもって、読

 者に受け止められる。これが諧謔文学の本質です。

  この三つの俳句に共通しているのは、攻撃的、他殺的笑いではなく、大らかな自虐、自

 嘲の笑いです。

  この自省的に、内面化された笑いの表現によって、批評性と開放性を同時に実現してい

 る文学的自己表現。まさに現代俳句的笑いのお手本というべきでしょう。

  この三人の俳人たちの笑いの「血脈」に、鮮やかな源流があります。それが、この俳人た

 ちが所属する「小熊座」を立ちあげた初代主宰、佐藤鬼房俳句に他なりません。

  佐藤鬼房顕彰俳句大会のシンポジウムのテーマは、毎年渡辺誠一郎編集長が選定して

 います。今年は鬼房俳句の本質に拘わる「鬼房俳句の諧謔について」でした。

  誰もがすぐこんな代表的な句を思い浮かべるでしょう。

   夏草に糞まるここに家たてんか        『名もなき日夜』

   鶏骨(ガラ)になりきつて意味なく笑ひけり  『地楡』

   老衰で死ぬ刺青の牡丹かな          『霜の聲』

   田楽のあばたに話しかけてゐる        『瀬音』

  佐藤鬼房の諧謔は、氏の社会性俳句と呼ばれた表現方法と密接な関係にあります。戦

 後高度経済発展期と呼ばれる一億総中流化の世相の中で、多くの「社会性俳句」俳人が

 その拠り所を失い、みるみる失速していった中で、なぜ鬼房俳句は独自の輝きを放ち続け

 られたのか。

  その核心に氏の、意匠としての諧謔文学の手法があったからです。その方法、即ち地理

 的、経済的、身体的苦難を、意匠としての自虐、自嘲表現によって、時代的風潮の「社会

 性俳句」を超克し得たからに他なりません。

  そこまで言うのなら句を例示して論証しなさい、と言われれば、私は自信を持ってこう答え

 ます。 「佐藤鬼房全句集とその後の補遺句すべてがそうです」
と。その証拠に、最初期の

 『名もなき日夜』と晩年の『枯峠』の句をランダムに選って並べてみましょう。


   『名もなき日夜』から

  どこからか蟻あきかぜを消しにくる/金借りて冬本郷の坂くだる/夕焼に遺書のつ

  たなく死ににけり/ぬかるみに月さし獣めく寝息/濛濛と数万の喋見つつ斃る/吾

  のみの弔旗を胸に畑を打つ/憂愁あり名もなき虫の夜を光り/胸せめぐ背嚢に手

  を嚙ませゆく/ひでり野にたやすく友を焼く炎/野火に負け来て妻子らの餉に坐る

  /誕生日靴の重たさだけがある/死ねば善人蟻一匹がつくる影/切株があり愚

  直の斧があり/弟妹の音読餓ゑしめてはならず/虹消えて暗い尾鰭が疾走する

  /戦火やまずいつはりなきは嬰児の便/満月の藻を靴に纏き発狂す/墓碑銘を

  市民酒場にかつぎこむ


   『枯峠』から

  むきだしの岩になりたや雷雨浴び/時絶って白根葵に口づける/松の蜜舐め光体

  の少年なり/北冥ニ魚有リ盲ヒ死齢越ユ/恋に死ぬことが出来るか枯柏/観念の

  死を見届けよ青氷湖



  初期から晩年までその手法は不変です。黙読すれば哀感胸に迫りますが、音読すれば

 しみじみと可笑しさがこみ上げ、やがて心が洗われる境地に至ります。批評性と開放性を

 同時に実現する鬼房諧謔文学がここにあります。






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