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 小熊座・月刊 
  


   2015 VOL.31  NO.357   俳句時評



      現代俳句はいま「困難」ではないのか

                              
武 良 竜 彦


   東日本大震災から四年が経ち世界は混迷を深めています。

   震災直後の本誌六月号で、「小熊座集作品鑑賞」のページを担当し始めたばかりの私

  は、次のように書きました。


   「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」

   ユダヤ系ドイツ人哲学者テオドール・W・アドルノの言葉です。(『プリズメン―文化批判

  と社会』36頁6・7行 渡辺祐邦・三原弟平訳 ちくま学芸文庫) 果てしなく進行する「絶

  対的物象化」の時代の文化現象を鋭く追求した本ですが、この象徴的な言葉に、人類

  はこんなところまで来てしまったのに、従来通りの言語表現に価値や可能性があるの

  か、と問われている気持ちになります。今回の「自然災害だった」という言説では収まり

  きれない、現代文明の諸問題が一気に噴き出したような大震災を体験した後、言語表

  現に携わる私たちすべての者の心を、その言葉は鷲掴みにします。


  振り返ると、この時の私は、言語芸術分野全体が、言語表現の困難に直面し、しばらく

 誰もが作品を生み出せなくなるのではないか、という思いを抱いていたのでした。 だが、

 それは杞憂で韻文分野では活発に作品を発表する作家が多く、小説分野でも少し遅れ

 ますが、高度な隠喩的表現で質の高い「震災後文学」が生まれました。だが、評論の方

 は、私の思いとは微妙にずれているような違和感を持ち続けました。

   ひと言で言えば、次のような思いです。

  問われたのはそんなことだったのか?

  この世界を覆い尽くそうとしている巨大資本主義世界の中で、あらゆる言辞が収奪され

消費材として無化され、言葉の屍の山が築かれ、その中で生身の身体を持つ人間から

発せられる日常語から、産業社会の流通語である指示表出語、そして言語芸術分野の

自己表出言語
に至るまで、瞬時に希薄化してきた傾向が、この震災で決定的に顕わに

なったというのに、予定調和的な伝統的文芸表現を、生産・消費し続けていていいのか、と

いうような思いでした。

  残念ながら、このような問題意識そのものに立脚した作品や文芸評論も、少なかったよ

うに思います。

  そんなことを思っていた最中、詩の分野で、まさに私の思いを高度に代弁してくれる批評

が出現しました。

  詩人の守中高明氏が二〇一四年の「現代詩手帖」五月号と六月号で、〈カタストロフィー

と言葉 「フクシマ」以後、詩を書くことは可能か?〉と題する連載で、次のように述べていま

した。



   巨大な、人問的尺度をはるかに超える巨大なカタストロフィーが起きたとき、わ

 れわれは、人間の言葉は、それについて何を語ることができるか。それも、大自然

 の脅威が襲ったことが引きがねであったとはいえ、実のところ、事は現代の科学技

 術の本質に深くかかわっており、その本質とは今日の世界資本主義のシステムを

 構成するさまざまな要素がそこにおいて緊密に結び合う収斂点にほかならず、その

 収斂点にかけられた過剰な負荷と矛盾の数々がまさに一挙に噴出し、文字通り白

 日のもとに曝け出されてしまったのが、そのカタストロフィーの歴史的、人類史的な

 意味であるとしたら、そのような事態を前にして、われわれはどのような態度決定

 をし、何を言えばよいのか。いったいどのような論理と倫理を構築すればよかろう。

 そしてどのような詩を? これこそが、「フクシマ」と通称されるようになった歴史的

 出来事が今日なおわれわれに突きつける問いであるだろう。



   そして守中高明氏は震災後の詩作品の実例を揚げて、旧来の文芸的抒情表現への退

  行傾向を鋭く批判しています。

   では、俳句界はどうだったでしょうか。

   俳句界での、それに匹敵する批評を、寡聞にして私は知りません。俳句界はそんな「問

  題意識」が希薄すぎるのではないか、そう自問せずにはいられない日々でした。

   話が解りにくいでしょうか。ではもう一度、もう少し解り易いテオドール・W・アドルノの言

  葉を紹介します。


    
アウシュヴイッツ以降は、このわれわれの生存が肯定的なものであるというい

   かなる主張も単なるおしゃべりに見え、そうした主張は犠牲者たちに対する不当

   な行為であるという抵抗感が沸きおこらざるを得ない。そしていかに空洞化した

   意味であれ、なんらかの意味を彼ら犠牲者たちの運命から引きだそうとすること

   にも抵抗感があるが、この抵抗感は、あのいっさいの出来事のあとでは客観的な

   契機を持っているのだ。


    (『否定弁証法』テオドール・w・アドルノ 木川元ほか訳 作品社 一九九六年、

    四三九頁)



   この文意を東日本大震災後の、私たちの創作行為に当てはめてみましょう。なんらか

  の意味を
「震災の被災者、死者」たちの運命から引きだそうとすることに、なんの

  抗感
も持たないでいることは、表現者として鈍感であり、または危機感がないと指摘され

  ているのと同じです。震災の年、某大手俳句月刊誌は、「被災地にエールを」と題して俳

  人百名を越える「励ましの一句」を掲載する企画をしました。この見事なまでの抵抗感の

  無さ
。そして、それを自覚することの困難さ。さらに、困難は他にもあります。


    
銃後といふ不思議な町を丘で見た       白泉

    戦争が廊下の奥に立つてゐた         白泉

    庭中にまはりてふるや春の雪         白泉

    夏の海水兵ひとり紛失す            白泉


   かつて、こんな俳句を作った渡邊白泉たちは、治安維持法違反の嫌疑をかけられ検挙

  されました。このような「困難」もまた継続中です。更に、言葉が集団的圧力に屈してし

  まう「銃後といふ不思議な町」日本
で、これらの混合する「困難」を、私たちは乗り越え

  てゆけるのでしょうか。






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