小 熊 座 2014/11   №354 小熊座の好句
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     2014/11   №354 小熊座の好句  高野ムツオ



    変哲もなき余生なり秋の雨         阿部 流水

   俳句における言葉の働きの不思議さは、その言葉が表面的な意味にとどまらず、

  そのように表現せざるを得なかった作者の心のありようにまで光をさしのべてくると

  ころにある。なぜ、そうであるのかを論ずることは、俳句という最短定型詩そのもの

  の根源的な秘密に関わることで、私などが、不用意に言及すべきことでも、また、で

  きることでもない。ただ、とりあえず次のように指摘することは可能だ。それは、俳

  句とは、作者が、その一句で本当に伝えたかったことの伝達を、ひとまず断念した

  ところから生まれてくるものであるということだ。そして、その断念の思いが強けれ

  ば強いほど、その俳句が内蔵する沈黙空間は広く、かつ深くなるのである。

   掲句、たとえば、日常会話の一節であったならば、とりとめない慨嘆で終わってい

  たかもしれない。しかし、俳句として、ことに「秋の雨」という時空を示す言葉との響

  き合いの中で立ち現れてくるとき、それは、単なる慨嘆を越えて、作者自身の、そ

  れまでの生と、あと幾ばくか知れないが、とりあえず残されている生の時間とのはざ

  までの、一瞬間を言い止めた言葉に生まれ変わるのである。「変哲もない余生」と

  は、数知れない変哲を表裏として、大げさに言えば奇跡的に存在している人生の今

  なのである。そして、そのことを噛みしめながら、雨の向こうを見つめている作者の

  横顔が見えてくる。

    流灯の明かりの中の流灯会        永野 シン

   「流灯の明かりの中」とは、一見明るそうである。流そうとする作者の顔も見えそう

  だ。しかし、実際、明るいのは流灯とその灯が届く範囲だけ。あとは無間の闇であ

  る。その闇は常世の闇であると同時に、今作者が生きてある現世の闇。その両世

  界の間をつかのま流灯は過ぎていく。

    ふくしまの汚染なきほど秋澄めり      志摩 陽子

   この句もまた、言外の世界の方に言葉のウエイトは大きく掛かっている。秋の澄

  みようが「汚染なきほど」と言われれば言われるほど、福島の汚染の深刻さが重く

  のしかかる。言葉の不思議さは、この句にもかく働いているのである。

    秋来ぬと畳に木々の影寄り来        瀬古 篤丸

   古来より秋到来の表現は無数にあるが、ここにも、さりげないながら一つの発見

  がある。

    親しげに来しががんぼの脚足らず      森  黄耿

   「親しげ」から「脚足らず」の落差が悲哀倍増。





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