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 小熊座・月刊 
  


   2014 VOL.30  NO.354   俳句時評



      「文学者の戦争責任」論で何を問うのか

                              
武 良 竜 彦


   ちょうど一年前、2013年11月6日の朝日新聞に、次の記事が掲載されました。

     正岡子規や高浜虚子が選者を務めた俳誌「ホトトギス」の戦時中の複数の号

    が、裏表紙が切り取られた状態で発行元の「ホトトギス社」(東京都千代田区)

    に保管されているのが見つかった。虚子が戦争に肯定的な内容を記した箇所

    が含まれ、連合国軍総司令部(GHQ)などが行った戦争責任の調査を恐れて

    切り取ったとみられる。(略)火野葦平に代表される小説や斎藤茂吉の短歌、反

    戦川柳などは戦後、戦争との関わりを議論されたが、俳句に議論が及んだこと

    はなかった。「歴史の盲点。文学と戦争、俳句という文芸を考える上でも興味深

    い」と成田教授は話す。


   この教授と新聞記者は知らないのだろうが、俳句界には戦時下の俳人のことを検証し

  た優れた著作があります。

   その一つ、宇多喜代子氏の『ひとたばの手紙から』(邑書林1995年)。のちに副題が

  改題されて『ひとたばの手紙から―戦火を見つめた俳人たち』として角川ソフィア文庫に

  2006年収録されました。表題になっている「ひとたばの手紙」とは、一人のアメリカ人女

  性から託された、硫黄島で戦死した日本兵の遺品のことです。アメリカでそれを預かった

  宇多氏は、帰国後、「宮崎県椎葉村」と書かれた差出人の住所をたよりに遺族を探しま

  す。その話を聞いた邑書林の島田尋郎氏が、「戦後五十年を機に宇多さんの戦争を書

  いておいてはどうか」と提案し、最初の『ひとたばの手紙から』が邑書林から1995年に出

  版されます。これがきっかけになって、探していた遺族が見つかります。二冊目の改定版

  『ひとたばの手紙から―戦火を見つめた俳人たち』の序にその経緯が書かれています。

   この本で宇多氏は、自分の少女時代体験した戦争と、俳人たちがいかに戦争と向き合

  ったかを、客観的に綿密に検証しています。この書をすでに読んでいる俳人なら、先の新

  聞記事のように、表層的な論調で語られがちな「文学者の戦争責任論」に、違和感を抱

  いたはずです。

     批判精神の立つ余地のないあの時代を知る身で、国家体制に準じた人々を

    詰ることはしたくないが、作品の方向を指示するものが国家であるというところ

    に、どうしても釈然としないものが残る。作家個人が自己の表現でもって体制の

    方向を示唆することは文学の領域であろうが、表現にとって最大の悲劇はその

    逆の場合である。


   俳人にとっての社会的責任、自己検証とは、自分の表現の拠って立つ思想基盤を、妥

  協なく厳しく問うこと以外にない。宇多氏のこの言葉の通り、俳句という文学の表現者にと

  って、自己検証しなければならないのは次の事です。 川名大氏が、戦中の俳人のほと

  んどが、

     「自己の内部に時代や社会に対する鋭い批判者としての他者を十分育てるこ

    とができず、またそれに基づく形式との相剋による方法論も確立できなかった」

 (川名大「昭和俳句史一」『鑑賞現代俳句全集』

第一巻 立風書房 昭和五十六年)

  と、指摘するように、文学の中で最も自己表現を立脚点とする俳句を詠むものにとって、

  その「自己」の座を国家に明け渡すこと自身が表現者としての敗北です。

   自戒しなければならないのはこの一点に尽きます。

   戦争という苛酷な現実に直面したときも、そして、それ以外の「平常時」でさえも、自己

  表現者としての俳人が、人間存在の内実を自己表現として俳句言語化できるか、という

  ことが、今日的、いや永遠の課題なのです。

   では、その上で尚、今、わたしたちは何を問うのか。

   例えば現在の状況、戦前の国家主義の反省を踏まえ、権力に対して異論を言う場を確

  保しようとして再出発した戦後でしたが、経済力が落ちてきた途端に国家主義的、排外

  主義的な、潜在的な本音が剝き出しになり、景気回復などの経済政策を期待して、今の

  政府に権力を与えました。有権者の二割という低投票率の中で、衆議院の六割の議席を

  取ったに過ぎない政権が「戦争のできる普通の国」へと舵を切り、もう誰にも止められな

  い状況が生まれている。もし将来、日本が戦争をすることにでもなったとしたら、現在は

  たちまち「戦前」となり、今を生きる私たちは、それを止められなかった世代の者として、

  「戦争責任的誹り」を受ける立場になります。そうなったとき弁明の余地はない。

   同時進行する時局に抗うことがいかに困難か。

   表現者として、その時代の言語状況に対して、厳しい自己検証をしたことがない者に、

  過去の俳人の言動における「戦争責任」を語る資格などない。

   こんな状況の中で、日本の伝統的な詩歌的情緒や類型的詠嘆に収斂されてしまう俳句

  を詠み続けることは「野蛮」である。戦時中にその日本的情緒が戦意高揚に容易く組み

  込まれてしまったように、現代では伝統的な詩歌的情緒の世界に自足してしまう精神的

  怠惰と無関心が、時局の暴走を許してしまうのだ。戦前戦中は、弾圧虐殺もあった困難

  な時代ですが、現在は怠惰な「日本的精神」という圧力が、それ以上の精神的困難をつく

  り出しているのです。

   宇多氏は前掲書『ひとたばの手紙から』で、「自己の内部に時代や社会に対する鋭い

  批判者としての他者」を、戦場でさえ育てていた普遍性を持つ俳句を紹介しています。


     我を撃つ敵と劫暑を倶にせる     片山 桃史

     死の夏天驢馬に愚かな縞ありぬ      〃


   この書を読んだ者は、逆に「文学者の戦争責任」論で何を問うのか、と自分が問われて

  いることを自覚するのです。





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