小 熊 座
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 第七回 佐藤鬼房顕彰全国俳句大会シンポジウム


           
 鬼房俳句と愛について   


                               平成26年3月26日
                                於 塩竈市ふれあいエスプ塩竈

 本シンポジウムは、第七回佐藤鬼房顕彰全国俳句大会において実施された。




                
パネラー  神野紗希、矢本大雪、宇井十間、関根かな

               司  会   大場鬼怒多


           


 
司会・大場鬼怒多

  皆さんこんにちは。昨年は「みちのく」、 前年は「鬼房晩年の俳句の魅力」というテー

 マだったんですが、今年は「愛について」というテーマをいただきました。皆さんの手元

 にコピーを一枚お配りさせていただきました。本日のパネラーの神野さん、矢本さん、

 宇井さん、関根さんからはすでに、このテーマで鬼房の全句の中から3句を選んで頂

 いています。こちらにそれらの句を掲げてあります。この中で、矢本さんと関根さんの

 選ばれ た句 〈かまきりの〉 という句が重なりましたので、全部で十一句並んでいます

 ね。それでは、まず神野さんからご自分の選んだ句を披講頂いて、それから討論に入

 っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 神野紗希

  では、神野紗希選、〈月明の沼氷りつつ必死なり〉 〈弟妹に父母なく寒夜とびだす星〉

 〈立ち尿る農婦が育て麦青し〉 以上です。

 大場

  ありがとうございます。

 矢本大雪

  矢本大雪選、〈灼けて不毛のまつただなかの野に坐る〉 〈かまきりの貧しき天衣ひろ

 げたり〉 〈永久に未熟の草卵なりわれは〉 以上 です。

 大場

  ありがとうございます。かなさんお願いします。

 関根かな

  関根かな選、〈かまきりの貧しき天衣ひろげたり〉 〈女児の手に海の小石も睡りたる〉

 〈みちのくのここは日溜り雪溜り〉。

 大場

  ありがとうございます。十間さん。

 宇井十間

  宇井十間選、〈青麦のたしかな大地子の背丈〉 〈酷寒や鬼哭のあまた沖べより〉 〈夏

 深み眼窩刳られゐるごとし〉。

 大場

  みなさん、ありがとうございました。鬼房全句の中から、「愛」というテーマで四人が選

 んだ中に、先ほども申しましたが、〈かまきりの貧しき天衣ひろげたり〉という句が重なり

 ました。この句は『名もなき日夜』という鬼房の初期の句集にある句ですが、大雪さんと

 かなさんがお取りになったということで、 まずこの句から取り上げてみたいと思います。

 〈かまきりの貧しき天衣ひろげたり〉 では大雪さんから口火を切って頂きましょう か。

 よろしくお願いします。

 矢本

  まず、鬼房の愛というのをどう捉えるかということにすごく悩んだんですけれども。実は

 『名もなき日夜』の第一句集について、鈴木六林男さんが跋文を書いているんですね。

 「佐藤はかなしい人間である。『名もなき日夜』はかなしい句集である。中略しますけれ

 ども、『名もなき日夜』を通じて言える事は、彼は彼の過去を基盤としてすべてを愛に帰

 結せしめているということである」。ここで愛という言葉が出てくるんですね。そして もう

 一度注目して、この『名もなき日夜』という句集を読んでみると、実に愛に溢れている と

 いうのを思い知らされるわけです。その中で多分今回も、何句ですかね、全部で十二句

 のうち『名もなき日夜』から取られてる句が多くありますよね。やはり佐藤鬼房も若かっ

 た。若いけれども情熱をもって俳句に立ち向かっていた、というのがよく見えてくるとこ

 ろじゃないかなと思うんです。〈かまきりの貧しき天衣ひろげたり〉という句にはどことなく

 何か新しい権威というものに挑戦する、というか立ち向かっているかまきりの雄々し い

 姿というのが見えてくるような気がするんです。ここが佐藤鬼房の、若いけれども情熱と

 か、それから勇気であったりとか、愛であったりとかを思いきりぶつけているような姿が

 この中に見えてくると。あまり言うとかなさんに、言うことを残しておいとかないといけな

 いんですけれども、〈貧しき天衣〉という言葉がすごいんですよね。貧しいんだと。まあボ

 ロボロにもなっているんだろうと思うんですけれども、だけども広げているのは天衣なん

 だと、天の衣であると。それだけ自信を持って、俳句というものに立ち向かっているとい

 うか、そういう姿が見えてくる。そういう気がするんです。ですから、かまきりが何か見え

 ないものというか、そういうものに挑戦したりして立ち向かっている姿というものに自分

 が投影されていると。鬼房自身がその姿であると、そういうふうに見えてくるところがす

 ごい句だな、と思って愛を感じるというところでしょうか。

  大場

  はい、ありがとうございました。鬼房が若いという話が出たんですが、これは昭和二十

 三年の句と全句集に出てますね。では関根かなさん、このかまきりの句について、それ

 から鬼房の愛というテーマについて、今回どんなことを考えて頂いたのか、そして、この

 シンポジウムにどのように臨まれたのかというあたりもお話しして頂けますか。

 関根

  今回のテーマであります「佐藤鬼房と愛」ですか、伺った時は本当に、どこか異国に逃

 げ出そうかとすら思いました。回を重ねるごとにテーマが難解になってきてしまい、とうと

 う愛か。愛という言葉が言葉なだけに、選句に至る前に気恥ずかしくなってしまったよう

 な点もあり、愛とは語り尽くせないものであるという勝手な思い込みもあって、どうしよう

 どういう観点でいこうか、非常に身構えてしまったんですけれども、身構えてしまえばし

 まうほど、なかなか選句が難しくなってしまったので、愛というものをまず単純に捉える

 ことにして、そこから始めました。何もかも慈しみ、大切に大事に思う気持ちなのだと。

 そういう単純な意味で愛を考えて、佐藤鬼房の作品を読み直し、まさかこのかまきりの

 句、重複すると思わず、本日を迎えたわけです。鬼房の若い時期の『名もなき日夜』の

 中の一句なんですけれども、この句の前の句では毛虫が、一句おいて次に蟻が題材に

 なっているんですね。で、毛虫の句の前には〈白服の汚れや愛を疑はず〉なんてまさに

 愛の言葉が出てくる俳句があるんですけれども、その句は素通りしてしまい、むしろこ

 のかまきりの句にどうしようもない愛を感じました。かまきりの生態についてあまり詳しく

 はないんですけれども、雄は飛行することがなんとかできる、しかしながら雌は体が重

 た くて頑強であり、ほとんど飛翔することができない。しかし羽をもっている。それはほ

 とんど威嚇のために使われる。その扇形に広がる後ろの羽は専ら威嚇のためっていう

 のは、何とも哀しい在り様だなと思ったんですが。そういったかまきりと接して、〈貧しく〉

 と言ったところは本当に哀しくも哀切な言葉なんですが、鬼房自身が目にしたかまきり

 の真実の姿であったと思うんです。ですから私は、おそらくは雌のかまきりなのではな

 いかなと思ったんですが、〈天衣〉と言っているあたりも含めて、そう感じました。飛翔に

 至らぬ、飛ぶことに至らぬ広げられた羽を、それを〈貧しく〉と言い、痛切な哀しさを感じ

 ながらも、〈天衣〉という言葉に昇華させている。天衣というのは、天に棲む天子もしくは

 天女がもつ羽のことなんですが、そういった貧しくも哀しい存在の羽を、天衣という美し

 きものに昇華させている。そこに一昆虫に対する痛切な愛を感じました。この世にあま

 た生息する一昆虫の生態の事実を踏まえつつ、〈貧しき〉と言い切りながらも、天衣に

 かまきりの羽を高めている。そこへ愛の視線を感じたというか。一昆虫に愛の眼差しを

 送る鬼房の姿を想起いたしました。実際に愛という言葉を用いた句よりも、この一昆虫

 に注がれた愛の意識を強く感じ、この句を愛の句として選んだ次第であります。以上で

 す。

 大場

  ありがとうございました。最近ご結婚されて、幸福な愛に包まれている神野紗希さんが

 何か話したそうなので……。神野さんは、平成生まれですか。

 神野

  いえいえ、昭和ぎりぎり、五十八年ですので。皆さんと同じ昭和です。去年結婚したん

 ですけれども、まだ愛が何かもよく分からな い状態なんですが。この〈貧しき天衣〉の句

 や、私の選んだ始めの二句は、二十九歳とか三十歳の頃の句なんですよね。私ちょう

 ど今年三十歳なので、まさに同じ歳なんです。子どもが出来たりする歳ですよね。何か

 そういう育てている時だと思うので、命に対する思いがどんどん開けていく頃なのかなと

 いうのは何となく実感しております。この句に関してはお二人仰って頂いたんですけれ

 ども、やっぱり〈貧しき天衣〉というところが、ここに詩がありますよね。宮沢賢治の詩で

 「無声慟哭」っていう詩があって、あれも慟哭って声を上げて泣くことなんだけれど、声

 が無い慟哭、つまり「無声慟哭」っていうふうにして、より深い慟哭の思いを出している

 わけです。 この句も天衣なのに貧しい、天衣が貧しいはずはないんですけど、天衣だ

 から素晴らしいはずなんだけどあえて、貧しいっていう正反対のものを句の中で組み合

 わせることで、むしろそこに詩が生まれてくる。普通は絶対に繋げない言葉の連なりで

 身内だと下げちゃうっていう所があるのですけれども、気持ちがあまりにかまきりに近

 付くと、ぐっと「貧 しい」でいっぺん下げて、でも天衣なんだっていう愛を出してっていう、

 親しいからこその含羞みたいなものがこの〈貧しき〉のところに表れてくるのかなという

 ふうに思いました。

 大場

  はい、ありがとうございます。宇井十間さん、去年参加できなかった分も含め、大いに

 語って頂きたいと思います。この句、十間さんはどのように捉えますか。

 宇井

  選んでないんですけど、やっぱり若い時の句だから甘いですよね。甘いというのは、

 理屈で説明できてしまうんですね。たとえば、いま皆さんおっしゃったように、かまきりの

 生態とか、天衣が貧しいという修辞とか、ちょっと見え透いているところがある。愛という

 より、理屈っぽい句です。おそらく後年にはあまりこういう句は作らなくなったんじゃない

 かと思います。なのであまり評価はしていません。

 大場

  はい、では評価した句を後ほどたっぷりと。それでは神野さんがお取り頂いた、やは

 り昭和二十三年の、〈月明の沼氷りつつ必死なり〉。 愛というテーマからこの句を選ば

 れたという ところからお願いします。

 神野

  はい。本当に愛って何なんだという話を始めると鬼房の句に辿り着くのかっていう感じ

 がするんですけど、ちょうどここに来る一週 間位前に、安住敦の句で 〈あたたかや辞

 書第一ページに愛〉 っていう句についてちょっと話す機会があって、皆で、本当に辞書

 第一ページに「愛」があるのかって、辞書をちょうど引いたばっかりだったんでけど。す

 ごい定義が沢山あるんですよね、六つも七つもあって。 さっき、かなさんが仰った「慈し

 む」っていうようなのがもちろん一番に来るんですけれども、「執着する」とかですね、結

 構深々としたどきっとするような言葉も、「性欲」とかですね、いろんな言葉が並んでいる

 んです。 だから定義しないといけないんだよなと思って、鬼房の句を読んでいて何が鬼

 房の俳句における愛なのかっていうことを自分なりに考えると、結論から言うと、世界に

 それも存在するんだっていうことを詠みたくなる気持ちが鬼房の愛なのかなというふう

 に思いまし た。簡単に言えば、この三つ全部そうなんですけれども、氷りつつ必死な沼

 って別に誰にも普通は目に留められないですよね。それから父母のない孤児たち、そ

 れから農婦たち、っていうようなものに目を留めて、そういうものを詩にしようっていうふ

 うに取り組む、その辺に愛を非常に感じました。〈月明の沼〉 の句は、月明かりに照らさ

 れて沼の凍るような頃、月の明りの中でどんどんどんどん凍って動けなくなっていく沼。

 大体沼を擬人化して〈氷りつつ必死なり〉なんて思う事が普通の人はないと思うんです

 けど、凍りゆく沼の悲鳴に耳を止めて、しかも〈必死なり〉っていう言葉がなかなか出な

 いなと思いました。 ついつい描写に徹しようと、俳句の入門書の頭でいくと描写にしよう

 と思っちゃうんですけど、逆に〈必死なり〉っていうことをいうことで沼に対する愛とか気

 迫みたいなもの、心を沼に寄せてる感じがすごく出てくるなと思いました。その辺は〈切

 株があり愚直の斧があり〉なんて句と同じだと思うんですが。そのまま全部ちょっとさら

 ってしまうと、〈弟妹に父母なく寒夜とびだす星〉っていうのも、幼い孤児たちですよね。

 そういう誰にもなかなかしっかり大事にしてもらえないような存在に目を止めて、しかも

 これも下五ですね、〈とびだす星〉っていうふうに詠んであげたところが愛だなと思いま

 す。寒い冬の夜に、お父さんもお母さんもいなくて、凍える二人にもうたまらなくなって、

 星がとびだしているんだけど鬼房の気持ちがとびだしているわけですよね。で、〈立ち尿

 る農婦が育て麦青し〉っていうのも、この農婦の立っておしっこをしている、そんなたくま

 しい農婦っていうものにスポットを当てて詠んでいる。 これを詠むっていうのがすごい。

 昔からある風景なんですけどなかなか詩にならないと思われて詩にされてこなかった素

 材だと思うんですが、鬼房はそういうものを掬い上げて、さらに詩に昇華する努力をして

 ると思うんですね。この句も取り合わせで生かされている句だと思います。立ち尿る農

 婦が育てたその麦が青いんだという非常に美しい生き生きとした生命賛歌にもっていく

 ことで、麦の青も農婦の姿に照らし合わされると生々しく見えてきますし、逆に農婦も麦

 の青の清々しさによって大変健やかに健康的に美しく見えてく ると思います。そういうこ

 とで、今まで詩に詠まれなかったものとか、みんなの目になかなか留まらなかったような

 もの、労働者とかそれからみちのくというもの、去年のテーマであるみちのくという場所

 であるとか、沼も、農婦も、こういう子供たちも、私たちもいるんだっていうことをスポット

 を当てて、掬い上げてくる、で、さらにそれをぐいぐいと詩に昇華させていく努力をするっ

 ていうその力がやっぱり愛の証明なのかなというふうに思いました。どれも下五がいい

 ですよね。下五に愛が溢れて、非常に力強く肯定しているところに愛を感じます。

 大場

  はい、ありがとうございました。私も家にある国語辞典を拾ってみたんですけどよく分

 からなかった。先日NHKで、詩人のまどみちおさんが亡くなられた時の追悼番組。アー

 カイブスだったかもしれませんが、まどさんが介護施設にいらっしゃるんですが、そこに

 女子高校生が訪ねていって、何でも聞いていいよっていうことでまず聞いたことが、「先

 生、恋という字と愛という字は何が違うんですか」ということでした。そうしたら、まどさん

 が、「それはね、恋は人に対するもので、愛は森羅万象すべてに通ず」とお答えになり

 ました。まどさんも鬼房も詩というものを追求した方ですから、愛ということはそういうこ

 とに通じるものなのかなというふうに思いました。それでは、大雪さん。大雪さんが挙げ

 てくれた最初の句ですね、〈灼けて不毛のまつただなかの野に坐る〉 これも昭和二十八

 年の作ですかね。

 矢本

  この辺りの句というのは、戦争の当時の大陸でしょうね。そこが戦火に焼けて不毛で

 あると。その真っ只中に私は座るんだ。つまり友人たちとかが戦死したりとかしていった

 りしているその野ですね、その真っ只中に座っているんだ、ということ。この心の動き方

 が言ってみれば愛なんじゃないかなと僕は思っております。鈴木六林男さんが『名もな

 き日夜』を「かなしい句集である」と。で、「佐藤はかなしい人間である」。この「かなしい」

 という言葉、これが平仮名になっているんですね。「かなしい」を哀切の哀というと、本当

 に哀しいだけの句集なんだ、人間なんだと思われるかもしれませんけれど、これを平仮

 名にしたというのは、ここにそれこそ愛というものが入るんじゃないかなと思います。か

 なしいと読みますよね、愛は。ですから愛に溢れている句集だということになるんじゃな

 いかなと思って僕は読んだわけです。そうするとやっぱり、もともと鬼房の句は、極端に

 言ってしまうとどれもこれも本当に愛に溢れているんですけれども、特に自分の感情が

 大きく動いた時とかっていうのはものすごい句を作るわけですよね。 〈切株があり〉と

 か。そういうもう有名になった句を今回は取り上げないつもりできましたので、出来るだ

 け今まで取り上げてなかった句を挙げようと思ってやってきましたから、〈灼けて不毛の

 まつただなかの野に坐る〉というのは自分に とっての現実ではあるんですけれども、こ

 の中に座っている私は一体何なんだろう、というくらいの問いかけがあるような気がす

 るんです。自分のことを思い、そして死んでいった友のことを思っていると。この前後の

 とこ ろにはいろんな句がありますよね。桃と蝶になったりとか、『名もなき日夜』の中で

 はそういう句も確かに多いんですけれども、そういう句の中に混じって〈灼けて不毛のま

 つただなかの野に坐る〉という句は茫々とした佐藤鬼房の孤独感というか、本当のかな

 しさというのがよく出てるんじゃないかなと、僕はそう思ってみました。

 大場

  全句集を見ますと「スンバワ島において敗戦十四句」の中に入ってますね。敗戦を受

 けての句ですね、これ。

 矢本

  そうですよね。多分、そういう情動というか、心動かされているというのが、孤独の中

 にもよく出ていますし、敗戦のショックというのももちろんあったでしょうけど、戦争の句

 について言うのはちょっと難しいんですけれども、佐藤鬼房にとっての戦争というもの

 が、必ずしも勇敢さや悲壮さやとかといったものに支えられているだけじゃなくて、むな

 しさみたいなものに支えられていて、その中にぼうっと座っているんだと、そういう意識

 みたいなものが、愛といっては変なのかもしれませんけれども、鬼房のかなしさというも

 のをよく表しているというふうに見たわけです。

 大場

  はい、ありがとうございます。 宇井十間さんの三句の中で 最初の、順番でいいです

 か。 〈青麦の〉(『夜の崖』)からいきますか。

 宇井

  じゃあ、句そのものについての検討からはじめますと、この〈青麦のたしかな大地子

 の背丈〉の句の青麦と子の背丈との対比、わりと単純な句なんですけども、これを取っ

 た理由は、対比の主眼主観が背丈にあるのではな く、むしろ「たしかな大地」の方にあ

 るというふうに読んだわけです。字数からしても、 〈青麦のたしかな大地〉っていうほうが

 主題になっていて、それに対してこの子の背丈と いう部分のはまるでその一部でしか

 ないような描かれ方をしている。愛の対象は子の背丈ではなく、大地の方なのです。そ

 れでそういう視点でみると、同じような原理が鬼房のいろんな句にあるんですね。次の

 〈酷寒や鬼哭のあまた沖べより〉という句でも、単純にそのヒューマニズムというか、人

 間的な愛を描いているわけではなくて、非人間的な情景を描くというのがむしろ鬼房の

 本質がよく現れている。そのように考えていくと、「鬼房における愛」という今回のこのテ

 ーマは、ひとつのアイロニーであると解釈してもいい、というふうに私はとったんです。つ

 まり鬼房に愛があるわけがない、そんなものあるわけがないんで、ないと思って読んだ

 方がもっとずっと生産的な見方ができる。三句目もやっぱり同じような解釈ができる。現

 代的な俳句にはある種のマンネリズムがあって、それを支えているのがなにかというと

 ここで私が定義するような意味での人間主義です。この句は、しかし、そのような人間

 主義で書かれ ているわけではまったくない。なくて、夏暑いから眼窩が痛い、って言っ

 ているだけなんですけれども、人間的な感情を描いているというよりも、それ以前の非

 人間的な情景を描いているというように読める。それで、そういうふうに考えると、「鬼房

 における愛」という今回与えられたテーマを、あまり鬼房に愛があるという前提で読まな

 いほうがいいと思うんです。思うんですけども、その意味で、私は他の三人の方とは立

 場が全く違うと思うんですが。「世界に何かそのことが存在することを詠むというのが鬼

 房の愛」と神野さん仰ってましたけれども、それはある意味で私は同意するんですが、

 もうひとつ進めて言うと、それを愛と呼ぶ必要があるのか。つまり、世界に何かが存在

 するということをいうときに、人間的な感情に擬してそれを考える必要があるのか。僕の

 鬼房観というのは、前々回のシンポジウムとほとんど変わってないので、その意味で今

 回の「愛」というこの主題も、私にとってはそれについて考えるためのひとつの方法でし

 かない。「鬼房の愛」というテーマを与えられると、ともすれば「愛」という言葉の通常の

 意味、日常的な意味にすぐにとらわれて考えようとしてしまう。しかし、やっぱり鬼房でシ

 ンポジウムやるんならば、鬼房を換骨奪胎しないといけないと思うんですよ。もっといえ

 ば、「鬼房」と「愛」という 二つのキーワードのどちらも換骨奪胎しなければいけない。議

 論されていることの中身が、あまり穏当な常識論の域を出ていないと思います。

 大場

  大変貴重なご意見ありがとうございます。 実は十間さんは、アメリカで哲学を勉強して

 いるんですよね。十間さん。鬼房に愛がないと……。何をもってそういうふうに言ってま

 すか。

 宇井

  愛をどう定義するかによるんですけども、人間的な感情として定義してしまうと、それ

 を鬼房の中に見るのは全句集を読んでいると、わりと難しい。そういう句は非常に少な

 い。にもかかわらず、それを無理やり人間的な愛があるかどうかというふうに探していく

 と、非常に苦しいシンポジウムになってしまうので、むしろはっきり鬼房には愛がないと

 言ってしまっていいと思う。そのほうが面白い。というか鬼房の本質に迫るだろうと思い

 ます。

 大場

  それはあえてそういうことを言って盛り上げようとしているわけ。

 宇井

  盛り上げようとしているというよりも、そういうふうに僕には読める。

 大場

  十間さんの句を読んでいると、 宇井さんには愛がないんだよ。 宇井さんには愛がな

 い。でも、鬼房には愛満載だと僕は思ってる。というくらい、僕は鬼房の句が好きです。

 かなさん、鬼房の近くにいた方で……。

 関根

  そうですね、私、今回選んだ句の中に〈女児の手に海の小石も睡りたる〉とまさに眠る

 句を選んでいるんですが、その句を思うにあたって、眠りは安息の行いですってメモに

 書いているんですね。なので眠ることは安息の行いですので、このシンポジウムは安息

 のシンポジウムであると、ある意味捉えられるかなと思います。宇井さんの見方、鬼房

 に愛はないっていう、そういう前提で、愛があるという前提では読まないほうがいいって

 いう見方もひとつの見方としてあって当然だと私は思います。ただ否定はできないんで

 すね。愛を否定すること。宇井さんの一句目なんて私すごく愛に満ちている一句だと思

 うんです ね。この〈子〉が出てくる時点で非常に愛に満ち満ちている。で、〈たしかな〉と

 肯定しているあたりで、私は非常に優しく愛に満ちている一句だなと勝手に思い、宇井

 さんとは相反する見方かもしれませんが。やはりこのテーマを頂いた時、非常に苦悩し

 ました。本当は愛とは単純なものではなく、先ほど鬼怒多さんがおっしゃったまどみちお

 さんのエピソードではないんですけれども、確かに家族愛、母子愛、父子愛、友愛って

 いう言葉があっても、母子恋、親子恋、父子恋、友恋などという言葉はございませんの

 で、やはりまどみちおさんの言葉が全てかなとも思うんですが。それをふまえると、鬼房

 全句集を読み解く中で、やはり何らかの愛を見い出さないと、十七音は綴れないものだ

 と。愛無くして得られた十七音もあるのかもしれませんが、私は何かに対する愛おしむ

 気持ちですとか大事に思う気持ちがあってこそ綴られる十七音だと思いますし、鬼房先

 生の遺した俳句の多くはそういう十七音だと信じております。以上です。

 大場

  ありがとうございます。だいぶ私も安心しました。大雪さん、これ〈永久に未熟の草卵

 なりわれは〉。『愛痛きまで』という句集、ここから拾って頂いたのは、大雪さんだけなん

 ですけども、これ僕も好きなんです。

 矢本

  実は鬼房の全句集の題名を見ていくと、『名もなき日夜』とこの『愛痛きまで』がちょっ

 と特別なつけ方をしているんですね。あとはもう、本当に『夜の崖』『瀬頭』『海溝』とか

 『半跏坐』とか簡単な、一語ぐらいで終わるような句集名で統一しているわけなんですけ

 れども、『名もなき日夜』の場合は、多分思い入れとかそういうものもすごくあったので、

 分かるんです。それをまた、鈴木六林男が看破したというふうに見える訳なんですけれ

 ども。『愛痛きまで』の時も、これが第十三句集になるんですかね、その時も『愛痛きま

 で』という句集名をつけるにあたって、やっぱりここから何か愛のことについてもひとつ

 言いたいことがあるんじゃないかなと思って、この句集に注目して、そしたら〈永久に未

 熟の草卵なりわれは〉。この「草卵」というのが私には分からなくて、辞書には出てこな

 い。ですから簡単にこちらの地方とかで、もしくは釜石の方とか、お母さんが言ったとい

 うことなんですから。それはいいことではなかったんですよ。お前は本当にいつまで経っ

 ても草卵のような人間だと。それは全然褒めてるんじゃなくて、むしろ鬼房を叱っている

 ような、考えも足りなくて、というふうにしているんですけれども。

 大場

  大雪さん、私が頂いた大雪さんからの資料で、この前書というか、草卵のことを説明

 頂いたんで、皆さんの手元には写してないんで、ちょっと言って頂けますか。

 矢本

  はい。 「三月ともなれば」 これが前書なんですけども。「三月ともなればやたらと産ま

 れる卵を母は草卵と言い、お前もそうだ、と性根を叱った」というので二句あるんです。

 この〈永久に未熟の草卵なりわれは〉というのと、もうひとつは〈母の他女人を知らぬ草

 卵〉という句ですね。この二句がこの前書の中で書かれてるわけなんです。つまりこの

 草卵というのは何かというのが分からなくても、鬼房にとっては少年の時に言われてズ

 キンと胸に刺さった言葉じゃないのかなと思って見てるわけなんです。それを、この時

 は七十近くなってるんじゃないかなと思うんですけれども、その頃にもう一度句集の中で

 書 くという。それも言ってみれば恨みがましいことで書いてるわけじゃなくてですね。何

 かお母さんを懐かしんでる、お母さんにお前は草卵だと言われたというのを喜んでいる

 ような感じさえするわけですね。そこが鬼房が童心に帰ってお母さんとの絆を確かめて

 いる、というような、愛というものをもう一回自分でなぞっているような、そういう感じがし

 たわけなんです。宇井さんに言わせればやっぱりこういうのはナンセンスなんだろうなと

 思います。多分この「草卵」と言われているってことが、鬼房の頭の中でずっと、少年の

 頃に言われてそれから五十年経っているわけですからね。それでも頭の中から消えず

 に残っていた、ということが何か鬼房の心を動かしているんだなというところで、ここにち

 ょっと惹かれてみたんです。

 大場

  はい、ありがとうございます。神野さんは若い感性でこの句はどんなふうにお読みにな

 りますか。

 神野

  そうですね。これも好きな句で、でも宇井さんの言うこともすごく分かって、というのは

 愛って大体陳腐になりがちですよね。愛って言った時点でちょっと嫌、みたいな気分が

 あるくらい。特に俳句に詠まれる愛、これが愛の俳句ですよって出された時に、ちょっと

 そういうふうに出されると嫌だなって思うような時って大体陳腐ですよね。愛情ってそん

 なに批判しにくいし、誰かを愛することを否定するのってすごく非人間的ですよね、それ

 こそ。なかなかできないんですけど、陳腐だと詩にならないわけですから、愛があってな

 おかつ詩にならなければならないってことはどうやって愛の陳腐さを超えていくかってこ

 とが問題になってくるかと思うんです。この句なんかは固有性で超えようとしているわけ

 ですよね。「草卵」って何だろうって、結局前書聞いてても分かんないっていう「草卵」っ

 ていう言葉によって、母の愛っていう非常にある意味では世の中に溢れている陳腐とも

 呼べるものを、固有性で超えていこうとしているわけですよね。他にも「立ち尿る」なんて

 いうのは「麦青し」と組み合わせて生々しさで超えようとしているわけで、農婦とか労働

 者にスポットを当てるっていうのはある意味で愛の表現の仕方としては、特に現代にお

 いてはよく見たことのある手法なわけですけど、でもそこにもうひとつ、生々しさをこれで

 もかと加えることで陳腐さを超えていくっていう、そういう意味で草卵の句もまさにそのひ

 とつだなと思いました。愛っていうことで誰かの俳句を考える時にはどう愛を昇華させる

 かっていうんですかね、陳腐さから救っていくかっていう事が多分大事になってくるのか

 なというふうに思います。

 大場

  なかなかこの愛という言葉、これをLOVEというふうに置き換えられないとは思います

 し、もともと日本の文字は愛という概念を持っていなかったのですから……。宇井さん

 が向こうで生活していて、欧米で愛っていうことについて何かその日常、宇井さん、我々

 日本人としてDNAとして愛っていうことについて、その辺、日々何か感じることっていう

 のはありますか。

 宇井

  あまりないですね。

 大場

  ないですか。同じですか。

 宇井

  同じかって言われると困りますけど。もともと意味の広い言葉だから、その違いを詮

 索することにあまり興味がない。

 大場

  失礼しました。今 〈永久に未熟の草卵なりわれは〉という句が『愛痛きまで』という鬼房

 の晩年の句集に載っているということで大雪さんと神野さんから話が出たんですけれど

 も、宇井十間としては、この句についてはどんなふうに捉えようとしますか。

 宇井

  〈われは〉っていうのが、問題ですね。われはって鬼房は言うのかなと思いますって。

 自分を未熟の草卵にたとえるところ、さらにそこに人生感慨を読みこむところは、ある

 意味でとても俳句の常識にかなっています。しかし、だからこそそれが私には大きな陥

 穽であるように思われる。そういう常識を無条件に前提として、鬼房を読むべきである

 のかどうか。つまりそれは、別の言い方をすれば、鬼房の可能性をはじめから低く評価

 して しまっているということになるのですよ。穏当なところに句の読解を落としこんでしま

 えば、とりあえずはシンポジウムとしては安心でしょうけど、それでは本当に鬼房を読ん

 でいるとはいえない。もっといえば、そういうふうに「ああ、鬼房先生も私たちと同じよう

 に愛を感じてるんだ」と思って安心してしまいたい、という読者の側の願望が、そういう

 読みを要請しているということはないでしょうか。ああ、鬼房先生も同じ人間なんだと。

 それはしかし、読者の側の思いこみでしかないかもしれない。つまり僕の考えている鬼

 房像っていうのはわりとヒューマニズムじゃないというか、非人間的な視点から俳句を

 書いているようなところが、全句集を読むとそういう感じがするんです。だけど、時々こう

 いう甘い、ある意味見方によっては読者におもねっているような句が時々出てくる。句と

 して評価するかと言われたらもちろん評価してないけど、なんで〈われは〉なのかなって

 いう疑問が少しありますね。そんなところでいいですか。

 大場

  例えば五七五の下五、じゃ〈われは〉ということが納得できないんだったら、例えば宇

 井十間だったら何を入れますか。

 宇井

  いや、こういう句作らないから。

 大場

  こういう句作らない。最近作った句、じゃ 皆さんにひとつ披露して頂いて。どういう句を

 作ってるの、最近は。最近こういう場に出てこないから、僕もちょっと分からないんだけ

 どさ。

 宇井

  僕の句はどうでもいいから。鬼房の話を ……。

 大場

  こういう句を作らない……。どういう句を作ってるの。最近は。

 宇井

  あの、僕の句の話は止めましょう。

 神野

  あの、別に助け船を出すわけじゃないんですけど、〈われは〉が気になるっていうのは

 分かるというか、晩年の特に『愛痛きまで』の鬼房の句と、初期の頃の句なんか比べる

 と、晩年の頃って「われ」とか「私」が結構前に出てきますよね。同じように生き物を詠ん

 でても、例えば『愛痛きまで』なんですけど、〈薄目開けががんぼに付き合っている〉って

 いう句も付き合っているわけですよね。昔だったら例えばががんぼだけを、すごくがが

 んぼになって詠んでいたと思うんですけど、もしくはががんぼともっと大きなものとを詠

 んでいたと思うんですけど、どこか付き合う私みたいなものが出てくるようになってきて、

 わりと… 〈日を越えりある小鳥の死思いつつ〉 これもやっぱり思っちゃうっていう。そう

 いうふうに変化しているとは思いましたね。だか ら〈われは〉っていうこの言葉も、やは

 りいろんなものになってきて今「私」にこの時、この頃は執着していたのかなというふうな

 気はしました。今指摘を受けて。

 大場

  はい。 私、鬼房の愛という表現が… 最晩年に幸いなことに鬼房先生に直にお会い

 する機会が何回かあったんですが、やっぱり鬼房のまなざしって言ったらいいんですか

 ね、まなざしが非常に嬉しかったというか、そういう感情を入れちゃまた十間に怒られる

 んですけど、そういうまなざしに出会えたことが、非常に僕の中で支えになっているとい

 うか、それが愛に通じるのかなっていう、またこれ怒られるかもしれませんが、ずっと鬼

 房先生のまなざしを思いつつ、東北に来たんですけども、そういうことを言っちゃいけま

 せんかね、 宇井さん。

 宇井

  これは「鬼房とみちのく」っていう前回の ーマと、今回のテーマとが繋がってますね。

 前回「鬼房とみちのく」というテーマが出てきたのは、要するに、私たちの鬼房っていう

 ふうに鬼房を読みたいという理由があったからではないか。同じように、「鬼房の愛」と

 いうテーマはっていうときにみちのくっていうテーマを出してきたり、鬼房先生には愛が

 あると。私は鬼房先生の愛に恵まれていたんだと、読者の側が思いたいということなの

 だろうと思います。そういう読み方は別に否定はしませんし、どのように読むかは各読

 者の自由です。だけど、単にそれだけだと、シンポジウムをやるということの意味はどこ

 にあるのでしょうか。下手をすると、シンポジウムが単なるセレモニーになってしまいか

 ねません。鬼房をみちのくの俳人と定義したいならすればいい。しかしそれを公式の場

 で肯定してしまうのはどうか。でもそうだとすれば、鬼房が仮に関西の俳人だとしたら、

 その人たちは鬼房の句を読むんだろうかという疑問があるが……。

 大場

  だって関西じゃないんだから。関西は関西の人たちがいるでしょ。

 宇井

  だけど、要するに自分の師匠だから評価するっていう、一歩間違うとそういう小さい思

 想になってしまいますよね。気持ちは分かるけど本当にそれでいいのかなという疑問は

 あります。

 大場

  だって関西じゃないんだから。

宇井

  だけど、要するに自分の師匠だから評価するっていう、一歩間違うとそういう小さい思

 想になっちゃいますよね。気持ちは分かるけ ど本当にそれでいいのかなという疑問は

 あります。

 大場

  かなさん、取り上げて頂いたこの二つの句も、本当に鬼房のさっき申し上げたまなざ

 しに通じるようなものがあって好きなんですけど。

 関根

  はい。〈女児の手に海の小石も睡りたる〉 を先ほど、眠りは安息の行いであるとお伝

 えしたんですが、まず女児という語彙に惹かれました。少女ではなく女児なんですね。こ

 の女児というやや硬質な表現に、硬質であるということに、愛を抱きながらも冷静な眼

 力が 根底にある句だと思いました。非常に分かりやすい俳句でもあって、海岸でひとし

 きり遊んで家に持ち帰った海の小石なのだろうと、そしてその小石は女児の手の中で

 眠りにつく。小石「も」ってあるので、女児ももちろん眠りについている。小石を手の中に

 置きながら。で、本当に先ほどから繰り返してますが、眠りは安息の行いです。海の小

 石に安息の行いを見た、鬼房の稀有な発想というか、稀有な愛情の視線で、大人であ

 れば見過ごしかねない海の小石を重用する女児への優しい視線というか、ささやかな

 瞬間、眠っているお子さんなり女の子の姿を描いた一句なんですけれども、非常に愛

 のまなざしを感じる一句だなと思いまして。小石を眠りにいざなったっていうのがすごく

 無比の発想だなと思い、愛を強く感じて頂いた限りです。で、この〈みちのくのここは日

 溜り雪溜り〉なんですが、「みちのく」という言葉があるように、 前回のテーマであった

 「みちのく」のときに選ぶべき句であったかもしれないんですが、 その時は全く思いつか

 なかった句であり、逆にこの「愛」のテーマの時に、これはものすごく愛に満ちている句

 だなって、みちのくという郷土を愛している俳句だなというふうに思いました。今このみち

 のくっていう地は三年前の震災から悲しみを包含した土地となってしまったんですが、

 みちのくに住まう限り、 この地を愛し見守っていかなければならないのも事実で、私も

 今後みちのくに住む限り、どうやってみちのくを詠んでいくか、そんな中でこういう本当

 の、〈日溜り雪溜り〉なんていう優しい語彙を並べて、みちのくを愛しているのをそこはか

 となく読者に伝えているあたりで、このようにそこはかとなく愛して、この地に愛着を感じ

 てみちのくの句を詠んでいければなと思っております。以上です。

 大場

  大雪さん、去年でしたか、「みちのく」のテーマで鬼房全句集から「みちのく」という言葉

 が入った句を数えて報告頂いたんですが、今回「愛」という字が入った句を数えてます

 よね。

 矢本

  いえ。実はパソコンが今年の正月のあたりに壊れてしまいまして。今まで集めてた句

 が全部だめになっちゃったわけです。で、今何とか修復しようと思ってますけど。多分、

 「愛」という言葉をいくつか使ってる句があるのは知っているんですけれども、鬼房の愛

 として詠ってる句はないんじゃないかなと思ってました。もう一度話を戻しますと、私が

 取り上げた句は、かなさんの句もそうなんですけれども、情緒的っていいますか、詩情

 的なんですよね。つまり情がすごく入っている。その辺が十間さんの選んだ句の中には

 入っていないのかというと、僕は十分に入っているんだろうなと思うんです。ただ形が違

 う。〈酷寒や鬼哭のあまた沖べより〉というのなんかも、言葉が固くはなっていますけれ

 ども、これも十分に情の入った言葉を用いてるなと思いますね。〈鬼哭のあまた〉という

 ところなんかがそういうふうに感じる訳なんです。それから〈夏深み眼窩刳られゐるごと

 し〉というところなんかでも、非常にこう詩情的というか、鬼房の腕力によって、絵が切り

 取られているというふうに見えてくるところがありますので、僕はこれも十分に鬼房の愛

 を写し取った句なんじゃないかなと思うんです。ただそうして見ると何でもかんでも一緒

 になってしまいますので、十間さんの言わんとしているところがよく分かると言えば分か

 るんですね。鬼房は愛で書いているんじゃないんだと思って読んだほうが、むしろ鬼房

 の句の正体ってものがはっきりしてくるんじゃないかという逆説的な意味でですね、とい

 うことが言えると思うんです。愛を書いてはいないんだというふうに読んでいって、それ

 でも愛になってしまうというところがあるかもしれない。句によっては。僕の選んだ句な

 んかも三句ともやっぱり自分が、というところにものすごく拘っていますし。〈かまきりの

 貧しき天衣〉 とかっていうところもそうですし、〈灼けて不毛のまつただなか〉とかってい

 うふうなところも、選んでいる場所、シチュエーションも全部自分が一番気持ちのいいと

 ころというか、そういう言葉の中でこの句が立ち上がってきている、というふうに見える

 訳ですので。 やっぱり情緒的なのかなという具合もあるんです。これがでも丁度心地良

 いですね、僕にとっては。このくらいの書き方っていうのが何となくぴったりくるというか、

 だから鬼房が一番好きなんでしょうね。

 大場

  鬼房を好きだと言って頂いてうれしいです。シンポジウムの会場には、今回の大会選

 者の星野先生も大木先生も出席されています。先生方には鬼房に対してこんなふうに

 思っていたということを言って頂くのが恒例なんですが、はじめに星野先生、この我々

 に対するご意見でも結構ですし、鬼房に対する ……。


           
                    大木あまり・星野椿両氏


 星野椿

  拝聴しておりましてね、 鬼怒多さんもあちらさんもね、 鬼房さんと心中寸前みたいな

 ね、心持ちでいらっしゃることがよく分かってね。鬼房さんって方は本当にお幸せな方だ

 なと思って、さっきから聞いてるんですのよ。 例えば私が死んでしまってこういうシンポ

 ジウムをやりましたら、誰もそんなに愛情なんかかけてくれないんじゃないかと思うんで

 すよ。これがね、素晴らしい皆様の心持ちが大変に、鬼房さんと離れよう離れようとしな

 がらね、なおかつ鬼房さんの懐の中にもう入り込んでいるというね、その凄さをしみじみ

 と今日拝見して、感激いたしました。以上です。

 大場

  ありがとうございました。大木先生、お願 いいたします。

 大木あまり

  あの、突然……そっと聴いて帰ろうと思っていたのですが、ただひとついいですか。私

 は鬼房先生に師事したことがあるので、どれがいいかっていうのはなかなか言えないん

 ですけども、反発しながらも惹かれてしまうっていうところが鬼房さんじゃないかなと思う

 んです。〈かまきりの貧しき天衣ひろげたり〉の場合、私だったら、貧しきまで入れないと

 思うんですね、句を作るときに。それが鬼房さんだなって、今初めて見た時に、〈かまき

 りの貧しき天衣ひろげたり〉とは絶対に作らないなと。だけれども、その〈貧しき〉ってい

 う思いが、私なんかには言えない、生きてきたそのものの鬼房さん……そういうことを

 言っているんじゃなくて、何だろう、私は言えないものを堂々と言えるとか恥ずかしげも

 なく言うという、そこがすごいなと。私は隠してしまうので、先生のほうが正直だったかな

 と思いますし、さっきの〈草卵〉、〈われは〉が問題になりましたけれど、お二人の仰って

 いることもよく分かるので中立になりたいんですけども、私はね、意味なく草卵に惹かれ

 るんですよ。何だか分かんない、理由がない、分かんない今も、で、〈永久に未熟の〉言

 い過ぎかなって思うけども、鬼房さんだったら許されるんですよね、これが。で、単なる

 私は通行人の一人としてこれをぴっと見た時に、なんという草卵で、草卵ってなんだろう

 って一生考えると思います。だけど〈われは〉まではちょっとロマンチックすぎるかなって

 いう思いがありますけど、この〈われ〉も鬼房さんしか言っちゃいけない言葉かなって。

 七十過ぎているから分かります。もっと若かったら反発するかもしれないけれども、鬼

 房さんてやっぱり鬼房さんしかできない、 (きず)のよさも全てひっくるめて鬼房さんな

 んだろうなって。何か意外とクールに見られるところの自分を発見しました。すみません

 つまんないことを長話してしまいました。

 大場

  両先生のお話で宇井十間と喧嘩しないで帰れそうです。ありがとうございました。それ

 では今日のシンポジウムはこれをもって締め たいと思います。ありがとうございました。

                                                 (終)



 ○ パネラーが選んだ佐藤鬼房作品三句   

  神野紗希

    月明の沼氷りつつ必死なり         (『名もなき日夜』)

    弟妹に父母なく寒夜とびだす星       (『名もなき日夜』)

    立ち尿る農婦が育て麦青し         (『夜の崖』)


  矢本大雪

    灼けて不毛のまつただなかの野に坐る   (『名もなき日夜』)

    かまきりの貧しき天衣ひろげたり       (『名もなき日夜』)

    永久に未熟の草卵なりわれは        (『愛痛きまで』)

  関根かな

    かまきりの貧しき天衣ひろげたり       (『名もなき日夜』)

    女児の手に海の小石も睡りたる       (『海溝』)

    みちのくのここは日溜り雪溜り        (『瀬頭』)


  宇井十間

    青麦のたしかな大地子の背丈        (『夜の崖』)

    酷寒や鬼哭のあまた沖べより        (『瀬頭』)

    夏深み眼窩刳られゐるごとし         (『半迦坐』)





 

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