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 小熊座・月刊 
  


   2013 VOL.29  NO.341   俳句時評



         『余白の祭』から

                              
渡 辺 誠一郎


  魅力ある評論集を手に取った。

  批評の文体から、肉声が聞こえるように思えたのは、吉本隆明あたりが最後かもしれな

 い。しかしこの度上梓をみた
恩田侑布子の『余白の祭』を手に取ると、どの章からも、恩田

 の生々しい肉声が響いてくる。読み終えても、文章に
艶があり粘着性の強い文体がいつま

 でも余韻のように残
る。

  本書は序章に始まり、第1章「冬の位相」、第2章「身と環の文学」、第3章「現代俳句ノー

 ト」、第4章「名句の
地平」、第5章「異界のベルカントー攝津幸彦」と、俳句論、作品批評、

 そして俳人論などと多彩な構成である。

  恩田はここで思想、宗教、哲学、美術などの言説を自由に駆使し、俳句の本質を穿つ冴

 えをみせてくれる。恩田は
若い頃から『歎異抄』や『往生要集』などの仏典に触発されるとと

 もに、陶芸の世界にも係りながら俳句の世界に独
自の視座を求めてきた。特に仏教や荘

 子をはじめとする東
洋的な芸術観を踏まえた、独自の「余白の思想」を展開する。

  「余白の思想」の意味するところは難解だが、誤解を恐れずに一言でいうと、優れた表現

 のためには、人間を超え
たところのものに委ねることで、はじめて想像を自在に解き放つ

 ことができる境地といったらいいだろうか。 「余白
の思想」とは、恩田にとっては、俳句論

 の根底をなすもの
であり。世界を自由闊達に生きようとする精神そのものということができ

 る。それゆえ肉声が聞こえるのだ。

  恩田はこの「余白の思想」を展開しながら虚子の俳句に触れて、次のように述べている。

 「虚子は「俳句は極楽の文学」であると言うべきではなかったと思います。うしろに地獄を控

 えたという限定さえ
つけくわえるべきではなかったと。俳句はあらゆる(きょう)に開かれ

 ているはずです。俳句は現実との格闘と想像力の往復
運動をエネルギーとして、三界の()

 ()なき荒野を駆ける一馬でありたいのです。」

  虚子は地獄を忘れて極楽に開き直り、極楽に遊んだのだ。恩田は俳句の世界に限定を

 設けず、「あらゆる時間・
空間軸」に開かれるべきとするが、虚子の極楽に徹した見事さも

 無視はできない一つの俳句の世界ともいえよう。

  収録されたいくつかの論説を簡単に紹介する。

  先の東日本大震災後に纏められた「俳句という詩」の文章では、原発の惨禍から眼をそ

 らす一部の俳人の姿勢に「事
とことばが極限まで乖離する」と危機感をあらわにする。

  俳句表現の特異さを説いた「俳句拝殿説」では、俳句は他者と出会うことで初めて一つ

 の完結した世界をなす詩型
ゆえに、神社に喩えれば「本殿」ではなく「拝殿」とする。そして

 季語が「発光装置」となって、俳人自身をも新しい
表現の地平に立たせてくれる世界である

 と。俳句は身体と
環境が通い合うところにしか成立しないとする「()()文学」

 論。いずれも恩田らしい切り口だ。

  恩田は、俳句の表現を、「ひとのこころを一挙に鷲づかみにしゆさぶる詩である。」とし、

 「宇宙の相貌」さえもきら
めかせることができる世界であると断言するのだ。

  「名句の地平」の章では、久保田万太郎や飯田龍太にはじまり、ヂュラス、五代目古今亭

 志ん生、ダンテまで筆が
及び、恩田の視座の広さと切り口鋭い多彩な才幹に驚く。

  本書の中で特に惹かれるのは、三橋鷹女と攝津幸彦論。いずれも二人への思いの深さ

 と相まって、優れて魅力的な
オマージュ論となって印象深い。また、「質感の幻術師」と題し

 た長谷川櫂小論は手応えのある論考である。

  桑原武夫の「第二芸術論」に触れて俳句の現在に鋭いまなざしを見せるが気になるとこ

 ろもある。

  恩田は新興俳句や前衛俳句の流れを「自我肥大派」と呼び、また虚子のように現実世界

 から眼を塞ぎ身辺のきれい
ごとに遊ぶ流を「屋上庭園派」と呼び、いずれも「仮想の自我」

 を踏まえる点で同根と括る。

  恩田は述べる。

  「一句が作者の全投影ではなくなり、まるごとの人間が俳句から消えてしまったのです。

 まるごとの人間が消失し
た代わりに俳句を支えるのは意図と演出です。明るい光をわたり

 歩く扁平でクリーンなテーマパーク俳句。一枚のコ
ンクリートをめくればそこは埋立地です。

 生き物の歴史が
ありません。」と。それゆえ「テーマパークで遊ぶのやめ、時代の嚝野に出

 ます。時代の流れるごつごつした渓や河原
を歩きます。眼だけの人間であったり、密室で

 空想する脳
だけの人間であったりするのをやめます。」と。

  視点の正しさはその通りなのだが、恩田の視線の先に豊かで新しい俳句の地平が拡が

 るとも思えないのが気がかりだ。むしろ俳句の世界を痩せ細させることにはならないのか。

 芭蕉を持ち出すこともないが「世道・俳道、是又
斉物(せいもの)にして、二つなき処にて御

 座候。」の言葉にあるように、
現実の生きる全てを引き受けて一つとなってこそ俳句表現

 ある。テーマパーク俳句や密室での空想も相対化し、取
り込むなかで、新たな現実と表現

 の拡がりが見えてくるよ
うに思えるのだ。そもそも俳諧は雅の世界から鬼っ子のように生ま

 れた。それはさまざまな俗言を俳言に転換し、そ
のエネルギーを取り込むことで新たな表

 現の地平を切り開
いたのだ。それゆえ、いまも俳句として生き延びている。俳諧・俳句の歴

 史は、日常に流通する言葉に確かな強さを見出した歴史でもある。それゆえ、「テーマパー

 ク俳句」
や「密室の俳句」も、現代風にいえばある種バーチャルの世界と思えば相対化で

 きるかもしれない。それも俳句の世
界。

  世の中は今や「仮想の時代」。近頃はコンピューター音声の曲がボーカロイド曲として急

 速に普及している。「ハ
イクロイド」も現れる時代かも知れない。現実と仮想の混在化する

 中から新しい表現の芽が生まれるかもしれないと
思うのは軽薄かも知れないが、そんな想

 像に遊びたい現在
である。

  いずれにせよ恩田の世界は、俳句の現在と未来を解く大きな手掛かりをわれわれに与

 えてくれる。

                                (『現代俳句』7月号掲載に一部加筆)




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