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 小熊座・月刊 
  


   2013 VOL.29  NO.339   俳句時評



         窓秋の頭の中で

                              
矢 本 大 雪

    頭の中で白い夏野となってゐる        高屋 窓秋

  実景を写生することに表現としての安定感と同時に物足りなさを感じている身には、とて

 も力強い心象を活写して
勇気を与えてくれた作品であった。ところが何度も読み返すと、一

 筋縄ではとらえきれない作品でもあった。

  「頭の中で」は、五七五のリズムに固執する向きには、「づ(ず)のなかで」と読みたいとこ

 ろかもしれない。もちろ
んその読みにも妥当性はある。ただ、この句が訴求したかったもの

 を、心象性の強調であると考えれば、「あたまのな
かで」と読む方が自然なのだろう。そう

 読むことで、この
時の創作のすべてが作者の内部で終始していることがあらためてはっき

 りしてくる。目前に夏野の光景がひろがって
いる、あるいはいない、という事実は無関係に

 なってしまう。しかも「(わが)胸のなかで」かもし出された感傷とも明らかに距離をおき、「頭

 の中」と主張することで、観
念性の強さが一層押し出されている。つまり甘えた、あるいは

 濡れた叙情性とは一線を画し、新しい叙情の世界を目
指している感じをうける。さらに、客

 観的世界を忠実に写
生することが俳句の唯一の方法ではないことが意識されている。旧

 来の主観的・主情的な作品は、この情景を私はこ
う見ているといった、まだ控え目な主張

 でしかなかった。
ところが窓秋は、あえて頭の中「で」と表現することで、客観写生と対峙し

 てみせたのである。この句は、主観的世
界にあえて光をあてた作品ともいえる。主観の観

 念性に、
さらに心象性にスポットライトをあてた作品になった。

  「頭の中で」の「で」が展開する世界の奥深さはことに興味深い。「頭の中は(が)白い夏

 野になってゐる」と比
較してみると、その違いは一目瞭然である。「頭の中は(が)」であれ

 ば、白い夏野の意味が全く変わってくる。た
んに頭の中の状態を述べたものでしかない。

 私の頭の中
は真っ白になっている、と窓秋は言いたいのではなかった。我々は白い夏野

 となっているものの正体と、白い夏野
そのものの正体、この二つの謎を突きつけられてい

 る。ま
ず何が白い夏野となっているのか。何となく理解しているようにこの句を読んではい

 たが、改めてその正体を問われ
れば、多少の戸惑いがある。最初に思いつくのは、「私自

 身」かもしれない。ただし、そうなると「白い夏野」に象徴的な負荷がかかりすぎて、句は難

 解になり抽象性がさら
に増し、夏野が見えなくなってしまう。別な主語として思いつくのは、

 私が今見ている夏野の光景である。これなら
ば「白い夏野」はより具象化し、わかりやすい

 のだが、決
め付けると句は単純な構図になりすぎて、句の魅力が半減しそうである。さらに

 主語は世界そのものと考えることもできるが、私にはそれらのどれも正解のような気がして

 な
らない。原句が「白い夏野〈と〉なってゐる」の「と」に込めた気分は、単に曖昧なのではな

 く、どれもが主語とし
て成り立つような大きな(頭の中で生み出される)可能性に溢れた観

 念世界だったのではなかろうか。この句のポイ
ントを「となってゐる」とあえて述べている点

 に求めれば、
それは必然であったのだろう。たとえばこの句を「頭の中(の)……白い夏野

 かな」と俳句的に処理した時と比較す
れば、あえて「なってゐる」と言い、それを省略しなか

 っ
たのは、他の俳人と比べ、動詞で止めるかたちの句を多用する本人のスタイルも関係し

 ているのだろう。が、それだ
けではなく「頭の中で……なってゐる」と強調することがこの句

 の場合は必要だったのだ。観念性のさらなる強調で
ある。

  「白い夏野」の作品は、初出が「馬酔木」の昭和七年一月号。この句に至る前段階の作

 品に「霧下りて青い夜空と
なってゐる」「雲の峰と時計の振子頭の中に」がある。これは川

 名大氏が教えてくれている(ちくま文庫『現代俳
句』)。少し川名氏の文章を引用しよう。

 ――当時の俳壇は高浜虚子の唱える「花鳥諷詠」「客観写生」に倣って、視覚的に自然の

 風景をなぞるのが主流であっ
た。この句の俳句表現史上の画期的な意義は、それと隔絶

 して心象風景・意識のイメージ化を斬新な口語文体に乗せて表現した点にある。日常次元

 の目に見える世界を脱却し
た現代俳句の嚆矢と呼ばれるゆえんである。

  窓秋は、「「百句自註」(『高屋窓秋全句集』・ぬ書房)で、「白い夏野」という文字を原稿用

 紙の真ん中に書いて一週間ほ
ど見続けたというから創作態度や方法が根本的に新しかっ

 たのである。昭和十年、「馬酔木」同人を辞するに際して、「馬酔木」昭和十年五月号に寄

 せた別れの言葉の一節に「言
葉が言葉を生み、文字が文字を呼ぶ、さうした形式主義的

 な僕の世界、つまり技術者として登場してきた僕」とあり、すでにこの句が作られた頃から

 言葉や言葉によるイメージ
同士が映発し、新たな言葉やイメージを生み出してゆく詩法が

 確立されていたと言えよう。――

  この文から、窓秋の句作法方がきわめて写生から遠く、むしろ観念的、つまり頭の中で

 作られていたことがわか
る。だからこそ、先行するあるいは同時に発想された作品同士が

 何らかの連想を共有していたことは容易に想像し
うるし、「霧下りて青い夜空となってゐる」

 「雲の峰と時計
の振子頭の中に」の二句の影響を指摘するのも当然であろう。しかし、大

 切なことはやはり原稿用紙の真ん中に書か
れた「白い夏野」なのだろう。

  さて残された「白い夏野」とは何であろう。私のように雪国育ちの人間は、白い野といえば

 必然的に雪野を思い浮
かべてしまう。しかし、あくまでも夏野であることから、そこには色彩

 としての白ではなく、まぶしいほどの光が見
えてくる。青野に対する白ではなく、光なのだ。

 この光は
おそらく象徴であろう。作者の俳句手法に対する確信とも、俳句的な原点とも、あ

 るいは未来への期待もしくは不
安と見ることもできよう。あえて夏野として、自己を肯定

 に思い、しかも発光すら感じながら、窓秋はこの時絶頂
感の中にいたのだろうか。





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