2013 VOL.29 NO.335 俳句時評
フォルム、高柳重信の場合
矢 本 大 雪
評論家の磯田光一は高柳重信についてこう語っている。
―― 彼は、様式への偏固なまでの執着を持つがゆえに、俳句を詩に近づける方法論に
も対立してしまうのである。
身をそらす虹の
絶巓
処刑台
この改行表記法は、石川啄木や土岐善麿が短歌にたいしておこなったものとは明らかに
異質である。高柳重信の方法は、あえて類例を求めるならば、シェーンベルクの〝十二音
主義〞にちかい。――(朝日文庫「金子兜太、高柳重信集」解説)
おそらく彼は、昭和二十年前後から俳句の新しい様式を意識(模索)していたのだろう。
それが結晶化した句集『蕗子』が昭和二十五年に発行される。先の例句はその句集の先
頭に配されている。最も人々の記憶に強く残っている作品といってもいいだろう。句は古来
からの五七五のリズムを踏襲してはいる。しかし、視覚的には八、四、五のリズムを強制
的に生み出し、「絶巓」はその意味する処からも改行後の天辺に配置し、「処刑台」は下に
置かれている。その辺りは、磯田光一も ―― 音の解体と再構成のほかに、表意文字と
しての漢字を考えるとき、高柳重信が一句のうちに占める漢字の位置に、どれほど意識的
であるかに驚かざるを得ない。『伯爵領』(昭和二十七年)所収の句のうちでは、「谷」「谷
間」の二字はつねにくぼんだ場所にしか用いられていないのである。 ―― と指摘してい
る。
高柳重信の多行俳句集は、発行順に、『蕗子』(昭和二十五年)、『伯爵領』(昭和二十七
年)、『罪囚植民地』(句集『黒彌撒』に所載、昭和三十一年)、『蒙塵』(『高柳重信全句集』
に所載、昭和四十七年)、『遠耳父母』(『高柳重信全句集』に所載、昭和四十七年)、『山
海集せんがいしふ』(昭和五十一年)、『日本海軍』(昭和五十四年)がある。そのうち、『蕗
子』と『伯爵領』の二句集は、特に改行や言葉の配置に工夫を凝らし、彼の意欲がよく目立
っている。特に次の句は、実験的意識と、俳句(詩)として追及されたフォルムの到達点と
しては、図抜けているように見える。
森
の 夜
更 け る
拝
火 の 彌 撒
に
身 を 焼
く 彩
蛾
対称的に配置された語が神秘的な宗教儀式の厳かさとともに、魔術的な神秘さをもたら
し、それが翅をひろげた夜の蛾の姿と重なりあって、いっそう不思議な美を醸し出す。そし
て、ここに至って、彼の多行作品は、きっぱりと暗誦を拒むものとして存在していることが
宣言されている。と、私には印象づけられた。『蕗子』と『伯爵領』の二句集の作品たちは、
どれもその際立った様式(美)を主張するものであり、リズムとしては暗誦は可能な作品で
あっても、一行句のように暗誦されることはどれも拒否しているのである。一枚の絵画のよ
うに、二次元的ではあるが視覚に訴えるフォルムとしての俳句の出現であろう。このフォル
ムは、旧来の俳句の読まれ方を覆してみせた。句の内容に基づいた鑑賞や、作者の視点
の位置、感動の正体を手掛かりにした句の分析は意味を削がれ見当はずれのものになる
かもしれない。訴えているのはイメージであり、フォルムそのものの美しさであり、言葉のひ
とつひとつの原初的な広がりを思い起こさせる。詩のように言葉を紡ぎながら、何らかの内
容とイメージを構築するという方法は、その短さゆえに許されてはいない。あくまで俳句とし
ての多行作品である。一語への、そして一語と一語の論理的なだけではない(文脈にもた
れすぎない)位置的な、あるいはモンタージュ的な関係をみせて、一句は小さな宇宙と化す
のだ。むろん一行の従来の俳句作品が、宇宙を作らなかったのではない。視覚を刺激して
みえる宇宙を現出した手法がより鮮やかであった。
ところが、なぜか『伯爵領』以後の高柳の作品は、改行はされているものの次第に改行
は儀式化され、各行の頭の位置の揃えられたものになってゆく。
燃え/あがりつつ/化粧の蝶が/降らす 灰 (『罪囚植民地』)
天が下に/秋きて/神は/みな徒跣 (『山海集』)
一夜/二夜と/三笠やさしき/魂しづめ
(『日本海軍』)
しかし、変化は目に見えるフォルムの違いには止まらなかった。句の訴えようとしている
ものが、そのフォルムを通じての茫洋とした世界の創出から、意味の伝達へとシフトした印
象がある。一句ずつが独自のフォルムを求めてもがいてみせた『蕗子』と『伯爵領』の二句
集以後は、多行とはいえ目を驚かせる形式は影をひそめ、リズムも五七五の句が目立ち
気負いこんで多行俳句の行く末に目をみはっていた読者は少しはぐらかされた感がある。
高柳重信の意識が後退したのか、と勘繰ってしまうのだが、そうではないのだろう。
二冊の多行作品句集を刊行したあと、彼は昭和二十九年に一行作品のみを集めた句集
『前略十年』を刊行する。これは、昭和十一年十三歳から昭和二十三年二十五歳までの
作品二百五十一句を収めたものであった。また、昭和五十二年には『山川蝉夫句抄』百句
を出版、後にそれは『山川蝉夫句集』として昭和五十五年に再録される。昭和四十三年、
四十五歳から昭和五十五年五十七歳までの一行句集であった。つまり、多行作品制作時
期にも一行俳句は書かれていたのである。
高柳重信は俳句作家として、自分にとっての俳句の未来を憂えるものだった。俳句が多
行であるべきと主張したのではなく、つきつめれば一句ずつの表現世界は、みな異なり、
その一句に見合ったフォルムを持つべきだと考えたのではないか。何故かそう思われてな
らない。
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