2012 VOL.28 NO.327 俳句時評
『俳コレ』と若き作家たち
矢 本 大 雪
2011年12月に発刊された「週刊俳句」編集部編『俳コレ』(邑書林)という、(帯のキャッ
チフレーズのままを書けば)俳句のこれからを担う作家22人「他撰」による各百句、を集め
た本が私のところに送られてきた。収録作家にも知り合いはいないし、送り主に心当たり
はない。ただ、日頃高野主宰や渡辺編集長には何かとお世話になりっぱなしなので、おそ
らくは、またありがたい気遣いがあったものと勝手に思い込み、ありがたく拝受した。それ
に、この資料を時評で取り上げれば少なくとも1回は原稿が書けるのではないかと邪な考
えで読み始めた。
各作品の内容にはあえて触れない。これが若者の問題意識、と紹介できるほど若い作
家の作品を読んでいるわけではないからだ。ここに書いたことも私だけの印象でしかない
と予め断っておく。その上で次のような作品には少しとまどいをおぼえた。
浅ければ川いそがしや犬ふぐり 南 十二国
さざなみや右手ふらふらしていたる 岡村 知昭
起きてすぐやることのある昼寝かな 野口 る理
対岸にタンクの並ぶ雷雨かな 小野あらた
飽食の時代の鴨として浮けり 松本てふこ
夢の無き時代の栗を拾ひけり 矢口 晃
再度断っておくが、書かれている内容に関してではなく、外見つまり様式に新味が感じら
れず、むしろ古めかしい印象さえあったのだ。それは若い作家に対する、新しい俳句の方
向性の萌芽を期待しすぎた反動かもしれない。私の思い込みもあるだろう。そこで、『俳コ
レ』をより詳しく検証してみた。
まず、対象の作家を二十代と三十代に絞り込んでみた。そして、切字のうち、「や」「かな」
「けり」の三つに限っての使用頻度を調べた。2012年現在まだ四十歳未満(1972年以
後生まれ)の作家十人を一番年上の作家から順に、紹介したい。なおカッコ内は作品百句
中の、切字の「や」「かな」「けり」の順番の使用頻度である。またそれら切字は、同時に使
用されることはほぼないので、数字の合計が百句中の切字使用作品のパーセントにもな
る。まず1973年生、岡村知昭( 10 ,11,17)。1977年生、阪西敦子(9,14,16)。同年
生、山下つばさ(8,8,5)。1978年生、津久井健之( 15 ,16,8)。1980年生、南十二国
(9,11,11)。同年生、矢口晃(12,9,5)。1981年生、松本てふこ(22,9,7)。1986年
生、野口る理(14,22,6)。1991年生、福田若之(1,1,0)。1993年生、小野あらた(7,
23,13)。全作品千句に占める切字「や」は十人で107句、「かな」は124句、「けり」は88
句であり、千句の中の切字の使用頻度は319句、約32%であった。個人的には多すぎる
という印象ではあったが、やはり比較対照しなければ、これらの数字が物語るものの意味
を語ることは出来ない。「かな」については佐藤鬼房全句集四千八百余句の頻度を調べた
が、88句で約1.8%であったのは判っている。さらに、手もとにある『小熊座の俳句 二
十五周年記念合同句集』(各作家二〇句掲載)を利用し、比較しやすいように最初から五
〇人の作家の全千句の切字の頻度を確認してみた。「や」は全体で56句、「かな」は34句
「けり」は26句という結果であった。合計すれば117句で、12%に満たなかったことにな
る。おそらくこれが俳句界の現状に近い数字であろう。少なくとも、『俳コレ』の若い作家の
切字使用頻度は、その二倍強であるから、ものすごく多いと言えるのではなかろうか。
この現象をどう解釈したらいいのだろう。俳諧発生以来の古い様式を今に伝える、伝統
を守った美しい創作行動と褒め称えるべきなのか。ならば、中に盛られた句の内容の斬新
さとの微妙な違和感はどうか。その違和感こそが、若い作家のめざしたものであったと、好
意的にみることも出来るのだが、それにしては無邪気に切字に凭れ過ぎてはいないだろう
か。俳句が昔から使用してきた切字であるから、使用するなと主張しているわけではない。
ただ、古くからあるものから数々の恩恵を受け、それを利用してきた団塊世代の末端にい
る私でさえ、俳句の創作に於いては、切字の便利さに、つい使用をためらう場面は少なくな
いというのに、先の若い作家たちはためらいを覚えなかったのだろうか。
俳句は定型(自由律派も定型を視野にいれ、あえてそれに挑戦しているという意味で)で
あり、暗黙のうちに諒解されている様々な約束事、たとえば文語体で旧仮名遣い、季語を
意識して使用し、切字などを利用して句に切れをもたらすことが出来るなどの点を遵守し、
多くの技巧に熟知すると、水準としては比較的安定的な句を生むのは難しくないような気
がする。だから怖い。大音量で「個性を!」などと主張するつもりはないが、作家として他の
句と区別されるのが書かれている内容に限定されるのだとしたら、まことに心細い限りで
あり、つまらなくはないか。正岡子規にはじまる近・現代俳句は、子規以後百年以上の時
間を費やし、その伝統的な作風が、これ以後も堂々たる俳句の幹でありつづけるために
は、何度でも「俳句とは」と問われ続ける必要がある。揺さぶらなければ、俳句の幹は新鮮
さを失い、自ら朽ち果ててしまうだろう。そろそろ文語体であることや、仮名遣い、ましてや
便利な切字に関しては、皆が自らそれを使用する意味を問うべきときなのだ。自覚のもと
に「や」も「かな」も「けり」も使えばよい。便利なツールは作家自身をも傷つけるまことに恐
ろしいものだと自覚した上で、存分にその力を借りればいい。そして、その先に確かな確
かな俳句の未来を見据えて欲しい。若い作家のみに期待するのは酷というものだ。俳句作
家一人一人が俳句という形式を見直すべきときが来たのだと思っている。そして、少なくと
も『俳コレ』の作家たちには、私より多くの時間と、より困難な問題を与えられていることを
うらやましく思っている。
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