2011/11 №318 小熊座の好句 高野ムツオ
洎夫藍や不明者減らば死者が増ゆ さがあとり
十月二十一日に高校生の北海道・東北文芸大会という催しが仙台市民会館で開
かれた。高校生の文芸の交流会である。我々の頃とは違って羨ましいことと思ったが
実際に文芸部に所属する生徒数は、五十年前と比べると格段に少なくなっている。
大学も事情は同じで、私が所属していた國學院大の俳句研究会も今は跡形もない。
この大会の俳句の部の講師を依頼されていたので、ついでに午前中行われていた
小池光、梶原さい子、佐藤通雅の三氏による公開鼎談も視聴した。テーマは「震災
詠について〜ことばに何ができたか」。詩、短歌、俳句の関わり方について話題にな
り、三人に共通していたのは、俳句では、こうした時事を詠むのが難しいという点であ
った。短さや季語の制約などのせいで、「作る人の心が入りにくい」ということだった。
俳人長谷川櫂が作った短歌も紹介されていたので、参加していた多くの高校生が、
俳句は震災詠など時事には向かない形式だと悟ったことだろう。的を得ていた意見
であるので、なおのこと忸怩たる思いだった。確かに俳句で時事は詠みにくいし、元
々、俳句は詠み手の思いを直接表出する形式ではない。主体の心情をそのまま言
葉に載せるには適さないのである。しかし、俳句には俳句の表現というものがある。
語らずにして語るというパラドックスにこそ俳句の言葉の可能性があるというものだ。
小池光が、俳句に震災が詠めるとしたら、その瞬間より時間がある程度経過したこ
れからと述べていた。これは俳句表現の特質を突いていて、示唆に富む指摘と思っ
た。
実際、俳句は因果な形式である。掲句にしても死者に対する悲しみなどどこにも表
現されていない。ただ単に、不明者が見つかるということは、それだけ不確実だった
死が確定することだという事実を冷たく突きつけているのみである。しかし、事実を、
このように言葉で露わにすることによって初めて伝わる真実と悲しみとがある。それ
は主情的に詠嘆することでは不可能な世界なのである。「洎夫藍」の漢字表記は中
国語の音訳とのことだから、特に意味はないが、「洎夫藍」の「洎 」が、溢れてくる涙
に見えてくるのは、私の視力が衰えたせいでは決してないだろう。
放射能逃竄はせぬ茸かな 増田 陽一
この諧謔も俳句ならでは。茸には放射能は溜まりやすいそうだが、逃げても所詮人
間に喰われるのがおち。いや、これは人間が怖れる毒茸か。それなら目を爛々と輝
かせている天狗茸や月夜茸の人間への哄笑が聞こえてくるようだ。
流星となるは瞬間衣被 須崎 敏之
桐一葉残りしものに老後あり 吉本みよ子
みちのくの船霊呼べば桐一葉 吉本 宣子
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