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 小熊座・月刊 
  


   2010 VOL.26  NO.298   俳句時評



      芸術記号としての俳句              佐藤 成之


  詩の言語記号は、記号の外にある事物、事柄を指向対象に持つ。持たざるをえない。

ある詩が「樹」と言えば、この言葉に対応するひとつの事物が詩の外に指定される。このよ

うな指向対象は、「樹」という記号に内在する一般観念(シニフィエ)と切り離すことができな

い。だから、詩の言語記号は、いかにその〈音楽性〉を強調したところで、音楽記号ではな

い。言語記号一般が持つ性質を持っている。詩は何ものかを指向してしまうという性質を免

れることができない。なるほど、言語の指向対象は、言語記号が知覚、行動、一般観念へ

と進む記号作用の系列にある時には、極めて明確に現われる。しかし、感覚を基礎とする

詩の言語記号はこうした指向対象を本来持ってはいない。持つための経路を欠いている。

にもかかわらず、詩が指向対象と無縁でいられないとすれば、それは詩に詩でないものが

すなわち知覚、行動、一般観念へと進む記号作用の系列が、抗し難く侵入してくるためであ

る。と、述べるのは『深さ、記号』(書肆山田・二〇一〇年一月一五日発行)の著者・前田英

樹氏である。では、以下援用に頼りながら、わずかながらでも考察を進めてみたいと思う。


  知覚(perception)ではなく、感覚(sensation)こそ絵画を生み出す力の源泉だと信じてい

たのはセザンヌだが、眼の知覚によってとらえた山の輪郭を、眼の感覚から身体に押し入

る感情を発展させ、彼は絵筆でその色をカンヴァスに表現した。感情(affection)にとどまら

ず、山や樹木自身の記憶=本質を表現に転換する時、絵画記号でしかないデッサンの線は

芸術記号と認めることができる。同じように、記号作用(signifiance)の二つの系列は言語記

号にも当てはまるという。たとえば「椅子」という言葉。知覚を基礎とし、日常の行動にとって

有用な一般観念として、通常は使用される。だが、〈詩〉と呼ばれるものだけが感覚を基礎

とする語法として活用を許されるのだ。言語を芸術記号として用いるのである。絵画におけ

る線や色といった、それらの単位性の持つ機能を画家はあまり意識していないと筆者は指

摘する。絵画記号は、絵画の外にある事物を視覚的に表象してしまうが故に、その単位性

を曖昧にしたままでいられるのだと。一方、楽音の単位性に気付かずに作曲できる音楽家

は存在しない。楽音の純粋なコンポジションが引き起こす感覚や感情以外、音楽記号は何

ものも参照する必要がないからである。そして、その二つの記号の中間にあるのが詩に用

いられる言語記号だという。この場合の言語単位は「語」と理解してよいだろう。


  言語単位は指向対象に先立ってあり、そうしたものとは無関係にそれ固有の「価値

(valeur)」を持っている。それは語の指向対象でもなければ、意味や観念でもない。むしろ、

それらをその使用のなかで生み出す潜在的条件である。言語記号の潜在的な「価値」は、

その平常的な使用のなかで現実化し、意味や指向対象を得る。と、話は続く。これに比べて

詩の言語記号は、感覚内容が言語記号の「価値」へと転換されるのを待たなければならな

い。それはあらゆる感情というものを超越し、芸術記号の「価値」へと転換され、世界につい

ての〈表現〉となることがあるというのだ。その「価値」は実作においてはじめて測定できるも

のであり、だからこそ、俳句の世界では多作多捨が奨励されるのだろう。作品が回答する

のである。


  セザンヌは、絵を描くことを「感覚の実現」と言ったが、それは自然が人間の感覚におい

て表現するところのものを画家が表現することにほかならない。ならば、「感覚の実現」=

「表現の表現」を言葉によって可能にすることが俳人の役割ではないか。「俳句」は「詩」の

言葉で成っているとは、かつて述べた通りだが、その本質は詩性〈ポエジー〉そのものと考

えれば、俳句の言葉は芸術記号のひとつと解釈して間違いないだろう。色には色の、線に

は線の自律した表現力がある。タブローはタブローの外側にある自然に接続し、絵画記号

の内部に転換する。この「記号作用」=「抽象作用」は作品と作者の間に感覚の通路を設け

るが、さらには作品とその外界に通路を開く。絵はそれだけでは成り立たず、その外に〈世

界が在る〉という「感覚の論理」を必要とするのである。それは、句帳を手に自然に向き合う

姿勢に等しいのではないか。人間だけが感じる自然への畏敬、身体の外側に在るものへ

の意識と言えばよいのかも知れない。一句もまたそれだけでは完成されない。この世界が

今あることによってはじめてここに存在するのだ。そして、言葉を運用するものは、言うまで

もなく生命、つまり私たち人間なのである。詩人や俳人の身体に流入する感覚内容は、言

語価値への転換を強いられるが、言語記号が転換するのは単なる感覚内容だけでなく、さ

まざまな感覚内容の照応だという。同時に、知覚を拒否した純粋感覚は身体のなかで、「不

可思議の深い合ユニテ一」という現象を起こす。その二つの事実によって、世界の〈本質〉

の表現は可能になる。生の総体が創り出すのが作品なのである。


  音楽に用いられる音は、自然界の音と同じではない。芸術記号となった楽音である。詩

のリズムは時として軽やかに音符を躍らせるが、それよりも圧倒的な強度で言葉は生まれ

ながらに意味を持つ。俳句の韻律など問題にならないくらい、社会的な概念を背負っている

のだ。言語が知覚と結び付けば散文となり、感覚と結び付けば詩となる。感情の向こう側=

自然に到達する場所がこの感覚の領域なのである。そして、その感覚の通路を利用したの

が芸術という表現形式なのだ。だが、この世界は質料で充満していて、実は、空虚な空間

はどこにもない。地球に潜在する無意識の記憶と感覚の結合が大きく弛緩し、極度に収縮

することによって芸術記号は転換される。自然や世界や宇宙全体を包括し、十七音に凝結

したのが俳句なのである。




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