小 熊 座      世界俳句国際俳句というパズル
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小熊座表紙   

    

   
 2007年11月  世界俳句/国際俳句というパズル

        ―第4回世界俳句協会大会(2007年)をめぐって (上)


                              宇 井 十 間

 英語圏でのプライスやフランス語圏のイマジズムなどの例に言及するまでもなく、
俳句はその短い歴史を通じて各国各文化で独特の受容のされ方をしてきた。いま
は、それらが国際俳句とか世界俳句という名で総括して語られることが多い。

前世紀以降のそうした歴史的な経緯をかんがえると、現代俳句の古典として、芭蕉
や虚子や草田男といった名と並んで、ブライス、ヒギンズやパウンドの名を挙げるこ
ともあるいは可能であろう。しかし、世界俳句や国際俳句という用語がいつごろから

使われだしたのか、また実際にいつごろからはじまったのかは別にしても、その現代
的な展開はきわめて多様で、かつ無秩序的でさえある。そこには、当然いくつかの固
有の問題がある二つは俳句作の面で、言語や文化が違うと驚くほどその内容や方法

かわってくる。もう一つは、それぞれの俳句観や評価がとても多彩で、日本の伝統的
な俳句観が必ずしも通用しないのである。こうした諸外国語で書かれ読まれている俳
句をどう評価し、歴史的にどう位置づけるかは簡単な問題ではない。世界俳句をめぐる
状況は、実際には混然としているのである。

 しかし、逆にいえばそうした混然とした状態だからこそ面白いのだとも言えるだろう。
答えがはじめから分かっているパズルほど、つまらないものはない。大事なことは、
むしろパズルの複雑さを正しく理解しまた享受することであり、さらにそうした複雑なプロ
セスそのものを肯定すことなのである。

 いくつか例を挙げよう。世界俳句協会(WHA)は2000年以来ほぼ隔年で世界大会を開
催している。これはヨーロッパ、アジア、アメリカなど世界各国の代表的な詩人俳人達が
集まる大規模なイベントで、今年はその第4回日のWHA大会が日本の明治大学及び上

野の水月ホテル鴎外荘で行われた。私は、今回で3回目の参加になるが、参加のたび
に日本の俳句の会に出席するのとはまったくちがった発見がある。たとえば、その2日目
の俳句朗読会で、インドから参加されたバス(Basu)氏は、次のような俳句を朗読された。
(朗読会なので、誤記脱字の可能性もるが、そのさいの文責は宇井にある。)

 彼らは信じる/彼らは信じない/彼らは信じる
 They believe/They don'̩t believe/They believe (Prabal Basu)

日本であれば評価がわかれるところだろうが、インドという国家の宗教的状況をかんがえ
て読むと面白い句であるこういう俳句は、世界俳句大会という場ではむしろ積極的に評
価されることがある。言葉の垣根を越えると、言葉のニュアンスが伝達されないので、し

ばしば俳句は言葉に頼るよりも概念に頼ろうとする。(英語圏の俳句では、ときにこうした
傾向がみられる。)バス氏の句は、日本ではそもそも俳句とは呼ばれないだろうし、ある
いは即刻添削され直されてしまうだろう。しかし、世界俳句という場では逆に妙に印象に
残るのである。こういう概念的あるいは抽的な作品は、言葉の壁をつねに意識せざるを
えない状況だからこそ理解されやすい。

 意味を指向し概念の伝達性を主旨とする上のような俳句がある一方で、それとは逆に、
意味を解体し言語のいわ物質的な特性を活用するような俳句も存在する。同日の朗読
会では、阿部完市氏も自作を4句朗読されたが、その中ではやはり氏の代表句である次
の句が印象に残った。

  ローソクもちてみんなはなれてゆきむほん

 翻訳は、ほぼ不可能。もちろん表面上対語訳の翻訳は可能だろうが、それではこの
句の面白さは伝わらない。しかし、「ローソクもちて」と阿部氏が朗読しはじめたとたん、
私は、句の残りの部分が口をついて自然に出てきてしまた。おそらく会場にいたほかの
方々もそうだったろう。

この句の魅力は、ポエジーというのともちがう。滑稽や謔でもない。作者がそういう意図
でつくったかどうかは別として、まるで謡うような俳句、前世紀はじめのフランスの自動
書記の詩法にも近いつくりの俳句である。はやりの批評用語でいえば、身体性といって
もいいだろう。しかしこの句の魅力を、たとえば日本語を解しない海外からのゲストにどう
説明したらいいだろうか。バス氏の俳句の概念性とは逆に、この句の伝わりにくさもまた
不思議と印象に残るのである。

 むろんこうした実例は、世界中で作られている俳句の諸傾向を示すほんの一部である。
世界俳句の実像は、これよりはるかに多様であって、私の解説は、単にそれを一つの

切り口で切って単純化してみせたものであるにすぎない。俳句の国際化というものが今
後どのような形で進展するにしろ、世界俳句の実際は、どこでどのような俳句に遭遇す
るかも予測できないそうしたカオティックな混淆にこそ魅力があるとも言えるだろう。

当日の朗読された俳句は、あまりに多数におよぶためとてもここで紹介はできないが、
世界大会の雰囲気をすこしでも感じてもらうため、次回は「世界俳句2007(第3号)」から
さらに数句(スペースの関係で和訳のみ、敬称略)引用してみることにしよう。

 (外国語俳句の翻訳はかならずしも五七五になっていないので、あるいは日本語では
奇異に感じられるかもしれなが、あえてそのまま引用する。その方が大会の雰囲気がそ
りまま云わらようにおもわるからである。)
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